ステージ7●2005年

新聞、雑誌などに掲載された趙博のエッセイ、インタビュー、紹介記事等の自選コレクション
読めばあなたも“パギやん通”に!
日本語を崩した歌 『産経新聞』(2005年12月某日 )呉 智英「断」欄

趙 博さん 歌うキネマ『ホタル』を観て
【学校労働者ネットワーク・高槻】機関誌『かわらばん』Vol. 53(2005.11 発行)

【パギやんこと 趙博の 歌うキネマ】
『ライヴタウン』VOL.253(コミュニティ・ジャーナル社 '05.11.10 発行)

コラボ玉造[TAMAZO] オープニング記事
『読売新聞』情報誌●ライブタウン ('05.10.10)

なにわ人物往来 一人芸で映画まるごと再現 『大阪民主新報』No.3847 ('05.6.5)

歌のある風景#3「艦砲ぬ食ぇーぬくさー」 by 趙 博 『決定版CDガイド 沖縄ミュージックがわかる本』
(監修:藤田正)

戦争震災生き抜く姿
在日一世題材に一人芝居「ワルルル」
『信濃毎日新聞』『松本平タウン情報』No.1532 ('05.4.24)

お寺はライヴ・ハウス!
「歌うキネマ」で縁[エニシ]を紡ぎたい。
『なごやごぼう[名古屋御坊]』No.466 / 2005.4.10
(真宗大谷派名古屋別院発行)

語って歌って名作映画再現
生野の趙さん 3年で公演50回超 
2005.3.25 『読売新聞』(大阪市内版)夕刊

六輔さん「昭和」を語る
昭和の町で昭和を語る
『毎日新聞』おおいた版(2005.3.9)
『朝日新聞』大分版(2005.3.9)



No.12●2005年


呉 智英 「日本語を崩した歌」(2005年12月某日 『産経新聞』 「断」欄)

▼クリック拡大▼



【学校労働者ネットワーク・高槻】機関誌『かわらばん』Vol. 53(2005.11 発行)より

趙 博さん 歌うキネマ『ホタル』を観て

 11月12日(士躍日)、学労ネット高槻結成7周年記念・藤原正文さんを偲んで「趙博・歌うキネマ『ホタル』」公演が行われました。会場満杯の観客と30名超の交流会参加者等、大盛会でした。恥ずかしながら趙さんの「歌うキネマ」を見るのが初めての私は、変幻自在に何役をも演じ分ける趙さんの語り芸に嵌ってしまいました。ゆるやかに流れる伏線かと思えば、鬼気迫る追カで人々の生き方・関わり方が観る者を圧倒する序破急。
 四季で表情を変えゆく海のうねりに揺られながら、あっという間に時間か過ぎていった感じでした。知覧の母と呼ばれる山本富子が真美の腕を掴み嗚咽する場面、キム・ソンジェがアリランを歌う場面では年甲斐もなくはらはらと涙が落ちました。
 観客席には趙さんの『追っかけ』が何人か来ておられたと聞きましたが、納得できました。職場の友人も「良かった!けど、趙さんの『過去の戦争を美化する時、既に戦争が始まっている』という最後の言葉が忘れられない!」と、趙さんの言う『典型』をまさに感性と想像カで視る話芸の世界でした。藤際さんのご家族・堺自主労働組合のみなさんも駆けつけて下さり、故藤原正文さんとともに過ごせたような、幸福なタベでした。(志摩 寛)
 ※学労ネット高槻HP「心のノート・ガラガラポン」http://homepage3.nifty.com/gakuronet-takatsuki/

▼クリック拡大▼



『ライヴタウン』VOL.253(コミュニティ・ジャーナル社 '05.11.10 発行)

【パギやんこと 趙博の 歌うキネマ】

 マルセ太郎の「スクリーンのない映画館」は、彼にしか演じることのできない、まさに至芸だったという。晩年のマルセに私淑したパギやんこと趙博は、間近で彼の芸を体感、吸収、2002年には一人で一本の映画を歌い、語る【歌うキネマ】デビューを果たした。
 現在までに「ホタル」「マルコムX」「西便制/風の丘を越えて」「泣いてたまるか」「砂の器」「神様こんにちは」「キクとイサム」など全国ですでに60回以上上演され、東京には常設館ができるという人気振り。10月16日、天王寺の40人も入れば立ち見が出る小さなフリースペース「コラボ玉造[TAMAZO]」で『キクとイサム』の上演会があった。
 今井正監督/水木洋子脚本、主演のおばあ役は北林谷栄という珠玉の名作だった。たった独り太鼓だけをもって舞台に上がったパギやんがどう語るか。
 戦後進駐軍でやってきた黒人米兵と日本人の母親の間に生まれたキクとイサムが、祖母の愛に包まれて力強く生きる様が、三国連太郎の声色まで出て、エンターテインメントに語られるのだか、映像の世界とは全く別種、濃密な空間と魅カを持つアナザワールドだ。
 戦後すぐには離れ聲女や、琵琶法師がまだあちらこちらで平家物語りなど語っていたが、もう語りの世界は姿を消した。パギやんの語りは日本を包含したまま地層を破り、アジアを伝承する凄い試みになるかも知れない。(S)

▼クリック拡大▼




『大阪民主新報』(6/5 第3847号)◎なにわ人物往来

一人芸で映画まるごと再現
▼クリック拡大▼
 一本の映画を、音楽と語りで表現する一人芸を始めて3年のシンガー・ソングライター趙博さん(48)=生野区在住。ビデオで作品の情景やせりふを確認して脚本を書き、「ホタル」「マルコムX」「キクとイサム」「砂の器」など8作を舞台に乗せてきました。スクリーンから登場人物が飛び出してきたような迫力、独自解釈による映画解説が見ものです。(4面参照)
 「スクリーンのない映画館」を上演していたマルセ太郎が01年1月に亡くなった時、「あの至芸がなくなるのは残念」と、自身のライブで再現。新作映画を観るたびに、「マルセさんやったら取り上げたはず」と、翌年から「歌うキネマ」と銘打って活動開始。今では全国から上演依頼が来ています。
 在日韓国人2世。ブルース、ジャズ、ロック、フォークから朝鮮・韓国の古典民謡、日本の浪曲までこなし、年間100回に迫るライブの他、講演活動も。パギやんの愛称とカリスマ性で、女子学生にも追っかけファンが。モットーは「常に好奇心旺盛でいること」  



『決定版CDガイド 沖縄ミュージックがわかる本』(監修:藤田正)

歌のある風景#3「艦砲ぬ食ぇーぬくさー」 by 趙 博

定価 \ 1,260(2005.5.8 / 泉洋社 刊)
皆さん、買って読みましょう!

▼クリック拡大▼
▼クリック拡大▼
 



『信濃毎日新聞『松本平タウン情報』No.1532 ('05.4.24)

戦争震災生き抜く姿
在日一世題材に一人芝居「ワルルル」
 ▼クリック拡大▼

 

     松本市浅問温泉・神宮寺(高橋卓志住職)の尋常浅間学校(永六輔校長)は17日、81時間目の授業として、阪神大震災に遭った在日一世を題材にした一人芝居「ワルルル」を開いた。女優の矢野陽子さんと歌手の趙博さんの掛け合いで始まった芝居は、「パンソリ」という形式。テンポのいい関西弁で演じられる、つらい思いを重ねて来たからこその「優しさ」や、絶望を見たからこその「生への感謝と明るさ」に、会場は笑いと涙に包まれた。

   (フリーライター・金井奈津子、写真・宮下常雄)

 「ワルルル」とは、ハングルの擬音で「ドンガラガツシャン」のこと。1995年1月17日午前5時46分、震度7の「ワルルル」が阪神淡路地域を襲った。長田区は約7干人の在日韓国・朝鮮人をはじめ、28カ国の人が暮らすケミカルシューズの町。ミシンの音が響き、2万人が働く町は4759棟が全焼、2万3803棟が全半壊、919人が亡くなった。
 『何もかも漬れとる!タンスと戸棚にふされて出られへん!』
 矢野さんふんする、長田区に住むハルモニ(おばあさん)が必死に脱出を試みる当時の回想から、物語は始まる。繰り返す余震、サイレンの音はしても、助けは来ない。刻々と進む崩壊。
 『あの時、自分の人生、考えたわ』
 キムチを漬けながら語られる震災と半生。
 『隣村の人と見合いしてな、弟の方が好きやったのに、気づいたら、兄さんと結婚してた。1ヵ月後に旦那はたばこの造がバレてトンズラや。18歳で孤独の花嫁や、かわいそうやろ?』
 波潤万丈の幕開けを告げる語り口は、ユーモラスで明るい。楽士役の趙さんは「この芝居は戦前戦後の日本の歴史。今まで演じられてきた朝鮮人は"日本人が望む朝鮮人像"だと僕は思ってる。矢野さんも僕もスタツフも、約4ヵ月問、長田の方々を取材してこれを作り、演じている。だからこそ共感が生まれる」といい、「ハルモニたちは、明るくて、たくましく大らか」と矢野さんもいう。
 言葉もわからない異国へ、「3年も経って、顔もおぼろ気な夫」を追って行けるのん気さと、儒教の国の「契り」の重さ。たどり着いた日本には、極貧生活と厳しい差別が待っていた。
 『雨風しのげるもんが家やろ?でも、うちは雨が横から降ったら、入り放題!すき間風はすき間があるから、すき間風。うちはな、風がそのまんま吹き抜けるんや』
 悲惨な生活を語っているのに、笑い声があがる。「笑いは大切」と喜劇畑を歩んできた矢野さんの面目躍如だ。
 『昼間は外に出んかった。しゃべれんし、人混みから"朝鮮、朝鮮"という言葉だけ聞こえてくるから、怖かったんや』
 社会全体が"よそ者"に門戸を閉ざしていた時代の苦渋を思う。
 『朝4時から働いた。2人目の子供ができたころに戦争が始まってな、世話してる牛のえさ、分けてもらって雑炊にした』
 そして敗戦。焼け野原からの再出発。
 『とにかく一家、食べなあかん』
 闇たばこからドブロク密造、ホルモン屋台、靴のミシンエからケミカルシューズ縫製所の経営者へ。知恵と度胸で働き通し、やれやれと思ったら、蓄えは旦那の"交際費"に消えていた。放とうがたたって夫は他界。それでも、『優しいとこもある人やったわ』と言える、人間的なかわいさ、大らかさ。子供3人と懸命に踏ん張って「念願の自分の家」を持った時の喜びは、想像に難くない。
 『ミシンのおかげでこの家建てて、家つぶれた時に、私を守ってくれたのもミシンや、何や不思議やな』
 趙さんの「ヨイトマケの唄」が響く。『おとうちゃんのためなら、エーンヤコ〜ラ』。家族のため、生きるために働き通した挙げ句、震災の犠牲となったハルモニも多い。
 矢野さんは「取材して一番感じたのは『学ぷ』ことの意味。食べるだけで精いっぱいだったハルモニたちは、70、80代になって、夜聞中学や定時制高校に喜々として通っているんですよ」。
 『物は一瞬でなくなるけどな、身につけた知識は、ずっと残るんや。命さえあれば、これから何でもできる』
 劇中にも流れる「FM わいわい」は震災から半年後、長田区に暮らす外国人のために、8言語放送を開始。多くの人の心のよりどころとなった。
 『ずっと故郷に帰りたかった。でも震災のあと、ちょっと変わったんや。いろんな国の若い人も年寄りもみんなで助け合ってるのを見た時な、この国は私の国やと思えた』
 10日、この芝居は長田区でも上演された。
 「明るさの奥に秘めてきた辛酸から10年ぶりに解放され、次へ進むための大きな役割を果たした」という。趙さんの言った「共感」が生まれた。
 『戦争にも震災にも生き残った。きっと私、生きてる憲味があるんや。生かされている訳があるんやろ。今はわからんけどな、見つかるはずや』
 その言葉は、戦争も震災も知らない私の心にも、灯(とも)った。



『なごやごぼう[名古屋御坊]』No.466 / 2005.4.10(真宗大谷派名古色屋別院発行)

お寺はライヴ・ハウス!
「歌うキネマ」で縁[エニシ]を紡ぎたい。
 ▼クリック拡大▼

 

    一九五六年生まれ。『歌う浪花の巨人』と異名をとり、全国各地でライヴを続けている。公演ではなく講演する機会も多く、「人権ギター漫談」も好評。二〇〇二年から「歌うキネマ」という新しい芸域に挑戦、公演回数は五〇回を越えた。名古屋にも根強いファンを持ち、四月には千種区の乗西寺で、歌うキネマ『砂の器』の公演を控えている。

●「歌うキネマ」って耳慣れない言葉ですが、どんなことをなさるのですか?

映画をまるごと一本、最初から終わりまで僕がお客さんの前で語ります。間に歌を入れたり、主題歌があれば最後に歌ったり。それで「歌うキネマ」というタイトルをつけました。マルセ太郎の至芸だった「スクリーンのない映画館」に触発されてやり出したんです。『ホタル』『マルコムX』『風の丘を越えて』『泣いてたまるか』など。今回は新作の『砂の器』です。あと、『キクとイサム』『神様こんにちは』なども控えてます。英語や韓国語の台詞は、かっこイイですよ(笑)。

●そうですか。今回のようにお寺で公演されることもあるのでですか?

ええ。お寺ってお客さんとの距離感がなくて大好きなんです。先日も、大分のお寺二ヶ所で、永六輔さんのトークショーにお邪魔したんですけど、地元のおじいさん・おばあさん達中心に三百人、五百人と集まってくださった。永さんのお話しに腹から笑って、私の歌う「ヨイトマケの唄」や「一本の鉛筆」に涙して…お寺では、宴[ヤ]る側もリラックスできて、とっても素敵です。話芸でも音楽でも、「法話」になっちゃうところが面白いですよね。

●ところで『砂の器』はテレビドラマにもあったような気がするのですが…。

全く非道いドラマでしたね。ハンセン病のことが一言も出てこない。一九七六年に封切られた映画・砂の器は、松本清張自身をして「原作を遥かに超えた」と言わしめた名作です。殺人事件の背後にハンセン病問題が存在しているのに、その根本を抜いてどんなドラマが成り立ちますか?私は怒ってるんです。

●それは初めて知りました。で、この映画を演目として取り上げた理由は何ですか?

実は、大学時代に岡山県の長島愛生園に行く機会があって、そこで初めてハンセン病の事を詳しく知りました。その後、僕自身が何か運動に関わったのではないのですが、国倍訴訟の原告でもあった千龍夫[チョン・ヨンブ]さんがうちの近くに住まわれました。僕のライヴに何度か来られて、そのうち仲良くなって、「これから地域で一緒にやっていこう」と意気投合した矢先に、昨年のお正月、他界されました。そのことが悔しくて…宿泊を拒否した熊本のホテルの事件やテレビドラマことが千さんの死と重なりましてね。それで『砂の器』をちゃんと語ろう、いや、僕が語るべきだ、と…。

●この『御坊新聞』にも「ハンセン病・解放への道」というコーナーが二月から始まりました。

それは奇遇ですね。それこそ「縁[エニシ]」じゃないですか。僕は「宿命」という言葉が嫌いで、すべて「縁」にすべきだと思っています。病や死、犯罪や差別を「縁」で看れば決して他人事ではない、ましてや「業」なんかじゃないんです!ま、僕は芸という「業」を引き受けてはいますが(笑)。

  (北條良至子 記)


2005.3.25 『読売新聞』(大阪市内版)夕刊

語って歌って名作映画再現 生野の趙さん 3年で公演50回超

 ▼クリック拡大▼
 



『毎日新聞』おおいた版 (2005年3月9日)    

永六輔さん「昭和」を語る 寺本堂に笑いの渦 ▼クリック拡大▼

『朝日新聞』大分版 (2005年3月9日)

昭和の町で昭和を語る 豊後高田で永さん講演



1999年を読む ● 2000年を読む ● 2001年を読む ● 2002年を読む ● 2003年を読む
● 2004年を読む  ● 2006年を読む ● 2007年を読む