『週間金曜日』 (2000.9.22 / 332号)
歌の発掘玉手箱 『ガーリックちんどん』 by 生田卍
天地を揺るがす新作が遂に登場した。69分15秒を、聴き手はちっとも長いとは感じないだろう。前作『ソリ・マダン』(281号[1999年9月3日]参照)で拓かれた「語り部」としての地平が、本作ではいっそうの輝きを放ち、絶妙な語り(騙り?)口に乗せられて、われわれは笑いと涙の物語へと引き込まれる。この点、本作がライブ盤として作られたねらいは見事に達成されている。
それにしてもこの曲の豊富さ、雑多さ、まるで玉手箱である。その中に趙博は、(若干の改作やアレンジを除いて)あえてオリジナル曲を入れていない。が、選曲にこそ人柄がでる。
小林旭の「自動車ショー歌」から、抱腹絶倒の曼陀羅漫談「君が代尽くし」まで。この人は何も考えていないのか、懐がやたらと深いのか。その判断は読者に任せるが、特筆すべき名(迷)曲がいくつも捨い上げられているのを見逃すわけにはいかない。
「涙のチャング」は1953年、朝鮮戦争のさなかに古賀政男が〈第二の故郷〉朝鮮の戦火を憂えて書いた曲。しかも、それを当時歌っていたのが、カン・チョルスと言う名の流行歌手・小畑実だったとは!
さらに、紀元二千六百年を記念して募集された〈日鮮融和〉の歌「日の丸兄弟」の「くろい瞳に/くろい髪/通う血潮は/昔から/さあさ日の丸/まん中に/立てて/仲よく/勇ましく」という歌詞(選者は北原白秋と西条八十)の、滑稽なまでのおぞましさを趙博は暴き出す。
また、70年代フォークの鬼っ子「ヘライデ」を、単に「あの頃」を懐かしがって聴いているわけにはいかない。天皇一家をおちょくる歌を70年代の運動の高揚期に歌うことと、今この歌を取り上げることとの間には万里の開きがある。見えない不敬罪はすぐそこまで来ている。これはきわめて危険な試みなのだ。逆に言えば、天皇一家の聖家族化が粛々とすすめられている今日こそ、この諧謔は痛打となりうるのである。
このアルバムの最後を飾る、「一本の鉛筆」にまつわるエピソードを御存知だろうか? 淡々とヒロシマを語る〈反戦歌〉は、なんと美空ひばりの持ち歌であった(325号[7月28日]「佐高信の人物メモワール」参照)。しかし生前、かの大歌手はこの曲をレコーディングすることはなかった。ライブでのみ歌われた、言わば秘曲が、趙博の手で蘇ったのである。シンプルで雄弁な名曲だ。
冒頭に述べたようにこの作品は、昨年12月の大阪から今年4月の神戸までの各地でのライブを集めたもので、クラリネット、バンジョーなどを担当する「ちんどん通信社」の面々、三味線の国本武春、ピアノの板橋文夫らが、いやがうえにも盛り上げている。いつもながらの好サポートを見せるギター担当の、のむらあきのプロデュースの賜物であろう。 このアルバムの各曲には、さり気なく製作年号が書かれている。われわれは趙博という案内人の口車に乗せられて、(主に)戦後史を旅するのである。そこには涙があり、哄笑があり、なによりも平和への祈りがある。老若男女、とくに世代を超えて聴いてほしい傑作である。
●「活字になったパギやん」目次へ●
『不登校新聞』 No.56 / 2000.8.15
INTERVIEW ● 趙 博さんに聞く
□■子ども時代はどのように?
小学校2年のとき、西成から堺に引っ越したんですが、転校先では毎日が戦場でした。毎日ケンカしては、「やっぱりアイツは朝鮮人だから」と言われる。だけど、朝鮮人として受けた差別よりも、貧乏であることで受けた差別のほうが辛かった。服が汚いとか、うちの家業(溶接)はうるさい、臭いとかね。
そうした差別に対して、教師は無力で無理解でした。「なんでケンカしたんだ、謝れ、反省しろ」みたいなことしか言えない。だから、教師なんて敵でしかなかった。子ども時代のこんな体験が、ずっと根にあると思います。
日本人はどうか知らんけど、僕ら「在日」の場合、10〜12歳くらいで世の中のウソがわかってしまう。子ども時代に権力の素顔を見せつけられると、どうしたって、ウソ臭さが分かってしまう。そういう意味で、妙な幻想は持ってなかった。とくに学校なんて、建前と本音がせめぎあう場所でしょう。
□■その後はどのように?
ケンカに懲りて、中学校からは必死に勉強し始めました。気が弱かったんですね、結局、徹底的なワルになれなかった…。僕らの「進路」は、まず第一に「ヤクザかカタギか」でしたから。
で、大学に行こうと決めたとき、親父に「行ってどうする」と言われた。親父は15歳で日本にやってきた一世で、学校にも行ってないし、文字も書けなかった。「わかっとらんな、朝鮮人は大学出てもアカンのや。」ひどい親だと思いましたよ。なんで子どもの夢を砕くようなこと言うのか、と。でも、学費が安かった(年間1万5千円)から、親の世話にならず、バイトして大学に通いました。
その後、大学院に進学したとき、親父は、ほんまに怒った。「俺がなんぼ無学やからて、大学の上に学校があるなんて見え透いたウソつくな、勘当じゃ!」と(笑)。そのときは笑うに笑えなかったですね。
□■在日コリアンであることで感じてきたことは?
自分の問題として考え始めたのは、20歳を過ぎてからですね。両親はとにかく生きるのに必死で、別に民族的ではなかった。ほとんどの家庭がそうだと思いますよ。誤解してほしくないのは、在日だからといって、全てが民族的なことを考えているわけじゃない。ただ、そういう人々が発言力を持つから注目されるけど、ほとんどの在日コリアンの実感とはくいちがっている場合が多いんです。「民族というウソ臭さ」も、ずっと感じてきました。
やはり、つらかったのは貧乏です。貧困ということがいかにつらいか、民族なんてどうでもよかった。だから、在日コリアンで経済的に裕福な連中が「差別を受けてきた」なんて言っているのを聞いても、「ウソつけ」と思いましたね。おまえらは金で差別を立派にあがなってるじゃないか、と。
しかし、20歳を越えた頃から、貧乏そのものも歴史的・社会的構造から生まれていることに気づいた。自分の生きてきた位置みたいなものが見えた、というか…。
それは、不登校にも、ほかのマイノリティの問題でも共通しているんじゃないですか。朝鮮人が「なんで俺だけ日本人じゃないんだろう」と思っていたのが、逆に、構造のほうがおかしいんだと気づくのと同じように、「なんで自分だけ学校に行けないのか」と思っていたのが、学校の構造のほうがおかしいんだと見えてくる。
□■予備校講師をしていて感じることは?
毎年の大学入試問題を見てると、ほとんどがクズですね。問題にメッセージ性も何もない。大学のセンコどもは、まっとうな入試問題すらつくれなくなった。低学力なんです(笑)。昔は「専門バカ」といって教授連を批判したけど、今は「バカ専門」ですよ。彼らは「バカ」にかけては一流の専門家なんですね(笑)。
そこに現れているのは、大学の制度疲労です。大学に自浄能力はないから、雪印と一緒で、いつかは何か起こるでしょう。70年代以降、大学の知のあり方は誰にもチェックされないまま、肥大化し、虚構化してきている。次は崩壊しかない、断言します。
逆に、たとえば沖縄には、自分たちの生活に結びついたところから必死になって物ごとを考えているから、すごく鋭い人がいますよね。知の可能性は、大学なんかより、そういう「現場」にこそあると思いますね。
□■受験生の側に感じることは?
ちょっと前までは、予備校は、まっすぐ大学に行くところを失敗して外れてしまった人たちが集まっていて、そこにエネルギーがあった。つまり、ヨビコーはマイノリティだった。今は予備校に来るのが当たり前になって、ただ偏差値だけを基準に、どこに向いているかもわからないで流されている。つまり、マジョリティになりさがってしまった。
ファシズムは、このマジョリティ根性から生まれるんです。「あっち行け」と言われたらパッと行く。逆に言われないと不安だったり(笑)。
□■予備校も危機にあると?
僕らは大学受験を商売にして、それを隠れ蓑に国家や文部省と対峙してきました。ですから「ワイラ、教育のキンタマ握ってるで〜」という自負を持ってます。つまり、教育制度の弱点を知り尽くしているわけです。
一方、少子化や低学力化で、予備校は確かに危機に瀕しています。問題は、その「危機」を予備校外の人たちと共有できるかどうかですね。旧態依然とした「お受験」は潰れたらよろしい、いや、潰れることが「危機」克服の道なんです。
□■趙さんは音楽活動もされていますが
ソウルフラワーの連中(※53号にインタビュー記事)をはじめ、阪神大震災の被災地で、いろんな人たちと出会った。それが、いまの音楽活動につながっていると思います。
ただ、ワーッと集まったボランティアには、最初からウソ臭さを感じた。そしたら、やっぱり僕の予想通り、潮が引くようにサーッと引いていった。僕が神戸に行き始めたのは、その引き潮の後、そこでホンマ物のボランティアと出会うわけです。こうなると、抜けれん(笑)。長田区の『FM わぃわぃ』のDJも、足かけ3年やってます。
音楽は、僕の唯一の楽しみです。社会的にどうという前に、自分が楽しい。小さいお店でやるのが一番いいし、いろんな課題を抱えた現場でも歌ってます。ただ、集会の添え物みたいなのは、お断り。もう習性として、政治や市民運動のウソ臭さを嗅いでしまう。それでいつも、嫌われてますけど(笑)。
□■ありがとうございました(聞き手:山下耕平)
●「活字になったパギやん」目次へ●
NHK社会福祉セミナー 2000年8月〜11月号
他者との出会いの中で表現を
浪速の歌う巨人・趙博さんはいそがしい。平日は大手予備校の河合塾で英語を教え、週末は全国各地でライブや講演。その合間を縫って原稿を書き、レコーディングをこなす。一見へだたりの大きい趙さんの二つの顔に共通するのは"伝えること"だ。音楽と教育と言葉を通して、趙さんはファンや仲間、生徒、そして世の中との間に、どんなコミュニケーションを持っているのだろうか。
6月に発売された4枚目のアルバム『ガーリックちんどん』(パンドラレコード)は、大阪など4ヶ所でのライブ録音のCD化だ。今回は、自分のオリジナル(原作)は1曲も入っていない。朝鮮半島育ちの古賀政男が、朝鮮戦争の時、"故郷"を憂えて作った『涙のチャング』、植民地時代の歌謡曲で『他郷暮らし』、最近韓国で流行した『ソウルからピョンヤンまで』など、埋もれた名曲、怒濤のカバー70分。
●――コンセプト(考え方)としては、「ニッポンてなんやねん?」ということなんですけれど、なかみは逆に韓国人の私が、「日本の皆さん、こういう歌を忘れていませんか」とか、「こういう歌があったんです」という感じで、浪曲もやったりしてるんです。
例えば『自動車ショー歌』は、小林旭の1964年のわけのわからない歌なんですけど、おもしろいですよ。『日の丸尽くし』というのは、君が代は歌いにくいから河内音頭でやったら非常に歌いやすかったとか、都々逸は字余りになってちょっと……とか。中国語と韓国語でやるとピタッと合うんです。ロシア民謡も合う。12分ぐらいのネタなんだけど、評判が良かったのでそのまま載せてしまおうと。
歌い始めた頃は、「メッセージを訴えなければ」という気持ちがありましたけど、この頃は丸くなったというか、良くいえばこなれてきましたね。ただ、「しんどさから逃げましょう。いいじゃない、そんなことは」はダメです。歌にならない。そういうのを歌う人もいますよ。でも、僕の中では歌にならないんです。
■ニッポンて何やねん?■

撮影:早坂 明
|
アルバムのコンセプト「ニッポンて何やねん?」は、直接的には、昨年夏に成立した国旗国歌法やガイドライン法(一連の日米戦争協力の法律)に対して発せられた問いだが、高度成長の兆しが見え始めた1956年、大阪市の西成という貧困と差別がむき出しになっている地域に、在日コリアン二世として生まれ育った趙さんが、子どもの頃から宿命的に背負わされてきた問いでもある。
在日であることを、若き日の趙さんはマイナスイメージでしかとらえられなかったという。韓国語を話す親に嫌悪感を持ち、自分が日本人であることを嫌だと思い、だれに教えられたわけでもないのに、在日であることがばれないように、日本人らしくふるまおうとしていた。
●――だいたい(自分が在日だと)社会的に意識するのは思春期ぐらいです。それから歴史の勉強したり本を読んだり人の話を聞いたりして、「〈在日〉は自分の責任ではない」ということを発見しますね。私も「何で俺はこんなに苦労しなければならないんだ。俺の青春を返せ」と叫びたくなった。
そこで不平等みたいなものをまず感じとりますね。日本が民主主義だとか平等だとかいうのは嘘だろうということを、個人レベルで感じてしまう。「これは差別だ」と思い知らされます。
それから、逆に今度は周囲を攻撃するわけです。「お前が悪い」「日本が悪い」「歴史が悪い」と。歴史と社会、そして自分…振り子が振れるように…学生時代はその繰り返しでしたね。
80年代に沖縄やアイヌの人たちと出会って、「俺たちと同じように歴史を背負って悩んでいる人がいるんだ」というその発見、出会いが、僕にとっては大きかったんです。
趙さんがアイヌ民族と出会ったのは15年ほど前だ。当時、関西大学で講師をする若手の学者だった趙さんは、ふとしたことから「アイヌ民族の歴史・文化・現状」の調査研究をすることになり、北海道に派遣された。
しかし、趙さんはそこで不信と拒絶にぶつかる。「何しに来た?」「何であんたに話さなければならない?」鋭い言葉が胸に突き刺さる。明治以来、アイヌ民族を蔑視しながら、自分の学問的業績を上げるために、人ではなく研究の材料として扱ってきた「学者」という"人種"が、当のアイヌ民族に簡単に受け入れてもらえないのは、当たり前のことだった。
●――頭ではわかっていました。相手は僕の素性を知らないんだし、悪いことをやったのは他のだれであれ、僕も学者として来たわけですから、敵ですよ。拒否されるのは当たり前のことなんですけれども、やっぱり自分で実際に体験しないとわからなかったでしょうね。正直いってキツかった。
写真を撮ったりそういうことは、一切しなかったんです。そのくらいの意識は持ってたつもりなんです。でも、そういう表面の行動とか礼儀だけの問題ではない。
僕にとってこの体験は、ある意味ではたいへんなカルチャーショックでしたね。アイヌの人たちの文化とか、自然とどうやって共生してきたとか、そういうことももちろん、カルチャーショックでしたけど、それだけではなくて、現在の生活と在りようですね。「在日コリアンだけではないんだ」ということを教えてもらったわけです。
「出会いの中で豊かになった」というと美しいですけど、ものが見えたというか、「対・日本という一方通行でものを考えていたらだめだな」という実感を得ました。
■アイヌ風の結婚式を挙げる■
予想以上の不信と拒否に戸惑う趙さんに、今では数少ないアイヌ語の伝承者であり、アイヌ民族最初の国会議員にもなった平取(びらとり)町二風谷(にぶだに)の萱野茂(かやのしげる)さんが、「アイヌプリ(アイヌ風)で結婚式をやりましょう」と提案してくれた。趙さんはそのとき、結婚を間近に控えていたのである。
やはり在日の妻と大阪で「韓国式人前結婚式」を済ませた翌々日、二人は二風谷で、萱野さんのアイヌ語の祝辞を受けて、アイヌプリの結婚式を挙げた。民族衣装のチョゴリを着て、その上からアイヌの衣装を着、アイヌのしきたり通り一膳のご飯を二人で食べ、終わったら新郎新婦は一つ脱いでチョゴリ姿になり、みんなで楽しく歌って踊ったのだという。
韓国古典舞踊家である妻の方が、文化を日常的に見ている分だけ、「自分よりもスッと入り込んでいた」と趙さんは回想する。
●――新聞にまで載っちゃいましたけど、あれはまったくの偶然だったんです。「結婚を控えている」と僕が言ったら、萱野さんが「だったら新婚旅行でいらっしゃい。結婚式をしましょう」とおっしゃってくれて、すごくうれしかったんです。運命的な出会いかなと思います。二風谷の人々は、私たちを親戚と言ってくれるようになりました。
これは僕の個人的な考えなんですが、一人ひとりの付き合いと同じように、民族同士にも、ひょっとしたら親戚関係というものがあるんじゃないでしょうか。むしろ、そうやっていろんなところで出会っているはずです。
96年にカナダでそういう話をしたら、向こうの人が「本当にそういうことがある」と言うんです。先住民族同士で初めて出会うと、言葉が通じないとかいろいろありますけど、「俺のところにはこれがあるから、やるわ」「お前のところにはこんな珍しいものがあるのか。うちにはないからくれ」という風に、文化の交換をするんだそうです。それで親戚になっちゃう。だから、「実は俺たちが今使っているこの道具は、昔、何とかいう人たちからもらったんだよ」と伝わっているというようなことがあるんですね。
一般的に、「文化とは何かピュア(純粋)なもの」という感じがありますが、僕はそれって嘘じゃないかと思うんです。アイヌ文化とか朝鮮の文化とか日本文化もそうだと思うんですが、文化そのものはもっとおおらかで、もっとオープンなもので、長い交流の中で今の姿があるんだという風に、僕は感じるんです。それを断ち切ったところから何か間違いが生まれたのではないでしょうか。
■予備校講師の日々■
大学の講師の収入だけでは食べられないので、趙さんは予備校の英語講師との二本立ての生活を送っていたが、1992年に思い切って大学を辞め、好きだった音楽を本格的に始めた。大学という職場で学者たちが繰り広げる相変わらずの出世競争や、中味のないマスプロ(大量生産)授業、中味のない研究、欺瞞に満ちた形だけの人権教育。そいういったものに改めて嫌気がさしての決断だが、そんな世界での出世を夢見ていた自己への反省も含む。「辞めなかったら、今ごろ悪い人間になっていただろう(笑)」と思っている。
●――予備校それ自体は、本来必要のないモノです。面白くもない。でも今、学校が面白くないから、予備校が面白くなってしまうんです。
授業では、まずその日の朝刊のことを取り上げます。このごろはネタが尽きません。「日本は神の国になったらしい」とか、「お前ら、戦争行くんやって?」とか、「(ガイドライン法の)ターゲット(標的)は君らだよ」とか。こんな話をするのは、僕ら当たり前だと思ってるんですが、「高校時代に、そういうのは一切聞いたことがない」と生徒たちは言うんです。たぶん教師が語らないんでしょうね。語れないというか、言葉も余裕も持ってない。つまり教師が自由じゃない。
僕はいつも授業で、「進路を偏差値で選んだらアカンぜ」と訴えるんです。「そういうやちは汚職する公務員になるか、さもなくば…」と。そうするとこの頃は、「自分はこういう分野に進みたいので、どこがいいですか?」とか「どういう先生がいますか?」とか、けっこう食らいつきはあるんです。知識欲ではなくて、よくいえば生徒は自分の行き方を探しているんだと思うんです。
予備校の一つ有利な点は、学校であって学校でないところですから、何をやっても自由なわけです。予備校は、考えてみると勉強したいやつが来るところです。そして、こっちは金を取って教えたいように教える。彼らは学びたいように学ぶ。こと教育というか学問は、本来自由です。
講演会でこのごろよく頼まれるのは、今の受験の状況や教育についてですね。日韓関係や在日問題というのは少なくなりました。
僕がいつもしゃべるのは、受験勉強はしないほうがいい、塾に行っている人はやめなさいといった皮肉なこと。特にお父さんやお母さんがた、PTAの前では、テレビゲームは即やめさせなさい、とかけっこう挑発するんです。
でもそれは本当のことなんです。遊べない人がちゃんと勉強できるわけがないんです。学校に期待しないで、行くなとは言わないけど、学校に行かなくても人間は生きていけるんだということを伝えたいんです。
それから、これもえらそうなことは言えないけど、親の姿というのを子どもはちゃんと見ていますから、会社へ行ってペコペコして、人をだますような仕事や行き方をしていて、子どもには「お前はまっとうな人間になれ」というのは、絶対にダメです。誇りを捨てない生き方、「一寸の虫にも五分の魂」が境域の根本、人間も国もいっしょなんです。
■音楽で少数者と繋がりたい■
今年2月に北海道新聞に寄せた文章の中で、趙さんは大学を辞めた当時の気持ちを次のように著した。
「フォーク、ロック、ブルース、浪花節、韓国・朝鮮の古典民謡、沖縄音楽、チンドン(ジンタ)――ジャンルにとらわれない庶民の音感覚が無性に懐かしくなり、「音楽で世界の少数者(マイノリティ)と繋がりたい」と願った……36歳の、遅すぎるデビュー」
予備校の生徒とは、卒業後もけっこう付き合いはあるという。コンサートにはよく来てくれる。教え子の進路は、なぜかマスコミと自由業が多いという。大学卒業後に大工になった女の子もいた。
●――このごろ思うんですけど、歌うことと書くことがけっこう似てきたんですよ。違うのは調べること。このごろはちゃんとした論文を書いてないんです。たぶん書けないんだろうなと思います。
学術論文というのは、他人がどうかというより、とにかく自分の考えをごしごしと書くでしょう。難しい文章で書いていく。でもこの頃は、インターネットとかいろいろな相手が読むのを前提に、時には「この人に読んでほしい」というのを思い浮かべながら書くと、けっこううまく表現できるんです。それを発見しましたね。
ステージでも、歌うはの必死というのが昔でしたね。でもこの頃は、自分でもけっこう楽しいんです。お客さんを見ながらその場の雰囲気でやれる。むしろそれが本来の姿だろうな、という気がします。
他者がいるという状況、他者との出会いの中で歌ったり書いたりという、表現するということは、そういう部分が見えた時にいいものができるし、楽なんじゃないかな。もちろん、しんどさはありますよ。でも、それは抑圧的なしんどさではない。この頃、自分の中で統一して見えたことの一つなんです。
|