ステージ3●2001年
新聞、雑誌などに掲載された趙博のエッセイ、インタビュー、紹介記事等の自選コレクション
読めばあなたも“パギやん通”に!


No.6●2001年下半期



月刊『笑息筋』第163号(2001.12.31 発行)より

矢野陽子喜劇ショッブVo.1『唱劇・ハルモニの夕焼け』(12月14日・15日)

 9月におこなわれた、矢野腸子ひとり芝居ブレビュー公演『ハルモニの夢』に次ぐ、「ハルモニ」シリーズの第二弾。キムチを潰けながら、ひとりのハルモニ(韓国語で「おばあさん」の意味)が自らの人生を語る、という基本的な趣向は同じだが、主人公は前回のハルモニとは別の人物である。
 済州島で海女をして暮らしている主人公は、「日本に行けば、道にお金が転がっている」という父親の言葉を信じ、大阪で仕事をしている兄をたよって島を出る。当時は、君が代丸という連絡船が、済州島と大仮を往き来していたという。その船で出された白いご飯を、日本での生活の幸先のように感じ、船酔いもなんのその夢中になってお腹に詰め込んでいく。
 兄は妹に縁談を用意していたが、引き合わされた相手がどうにも気に入らない。なにしろ、彼がやってくると、三軒先からポマードの臭いがするというくらい、彼女にしてみればひどく悪趣味な青年なのだ。しかし、縁談話ば勝手にすすめられる。趣味は趣味として、それほど悪い人でもないらしい。ついに観念して結婚するが、男が持っていたものといえぱ質札ばかり。当然といえぱ当然だが、お金などどこにも転がってはいなかった。そして戦争の時代。貧しい碁らしのなか、主人公は健気に、そしてたくましく生きていく。
 今回も、舞台下手の奥に、楽士の趙博(ちょう ぱく〉が鎮座している。しかし、何かが決定釣にちがう。前回の『ハルモニの夢』では、ほとんど言葉を交わすことのなかったハルモニと楽士が、今回はやけに話をする。エスプリの効いた会話の応酬もある。
 そういえば、冒頭、ハルモニは、楽士とともに客席下手側のドアから登場し、打楽器を打ち鳴らしながら『カクソリ・タリョン』(門付けのかぞえ歌だそうだ)を歌っていた。前回、楽士の意味について勝手に恩いをめぐらせてみたりもしたが、ここでは楽士は、ハルモニと同様、明らかに「異界」の登場人物のひとりである。それは一貫していて、「異界」に新しいハルモニたちがやってくるというラストシーン、二人はいっしょに出迎えのために腰を上げる。
 「進化する芝居」と銘打たれた「ハルモニ」シリーズだが、この「わかりやすさ」も進化のひとつなのだろうか。ハルモニの言葉を受け止めるだけの存在であった前回の楽士のほうが、わたしにばずっと魅力的で興味がそそられるのだが。
 最後の最後に、ハルモニが故人であることが明かされるが、この驚きと感動も、二回目ともなると色褪せる。別段、オチというわけでもないのだが、この部分をこそ、ぜひ「進化」させてもらいたい。次回はどのようなハルモニが登場するのか、また、泣きながら笑いたい。 (12月16日所見・原 健太郎)

    ※東京コメディ倶楽部の『笑息筋』は「もっと笑いたい人のための日本一やすっぽい月刊雑誌」(頒価40円)です。
    【定期購読申し込み方法】
    年間購読料 \1,440(実費+送料)分を切手(80円切手18枚)にて下記までお送りください。
    〒225-0033 横浜市青葉区新石川 4-11-4-203 原 方 東京コメディ倶楽部 (tel/fax 045-912-6602)


●「活字になったパギやん」目次へ●




月刊『笑息筋』第160号(2001.9.30 発行)より

9月4日 シアター×[カイ] 矢野陽子ひとり芝居 プレビュー公演 『ハルモニの夢


 マルセ太郎の喜劇公演では欠くことのできなかった女優・矢野陽子のひとり芝居。ハルモニとは韓国語で「おばあさん」のこと。矢野扮する在日韓国人のハルモニが、キムチを漬けながら自らの来し方を独り言のように語りつづける。少女時代の愉快なエピソードからはじまり、結婚、子育て、終戦直後の貧しくもたくましい生活、相次ぐ息子の死、夫の死、そしてかわいい孫たちへの想いなどを、ひとりの女性の一つの人生として淡々と描く。「波瀾万丈の人生」式に、歴史と人生を重ね合わせ、何事かを声高に訴えるわけではない。ハルモニの人柄と相まって、舞台は、底抜けな明るさと優しさに満ちている。そのくせ、私は母を想い、家族の顔を思い浮かべ、なぜか泪をしぼり出すのだった。
 脚本の松江哲明は、77年生まれの映画監督。韓国人の血を体内にたたえながら、自身のハルモニからは「哲明がキムチを食べてくれたらどんなに嬉しいか…」と、口癖のように言われているのだそうだ(公演プログラムによる)。松江にとっては、まさに祖母の世代の、遠い時代の物語だ。それにもかかわらず、生活の臭いを見る者にしっかりと感じさせたのは、矢野の演技もさることながら、脚本に込められた同朋への愛ゆえであろう。
 ひとり芝居といいながら、実は舞台には、常にもうひとり人物がいる。音楽担当の趙博(ちょう ばく)である。ミュージシャンとして活躍する一方、マルセ太郎死去後上演された『イカイノ物語2001』では、初演時、マルセが演じた役を「代演」した、俳優でもある。その趙が、今回は舞台下手の後ろ隅に陣取り、歌唱と朝鮮の打楽器の演奏を、「楽士」としてつとめた。朝鮮・韓国民謡や、美空ひばりが歌った『一本の鉛筆』、美輪明宏の『ヨイトマケの唄』など、十曲以上の歌を、劇中、科白のニュアンスを受けながら、ときに激しく、ときにはしっとりと歌った。つまりこの芝居は、矢野陽子の演技と趙博の歌と演奏のライヴセッションでもあるのだ。
 芝居をつづける中で、ときおり矢野は、趙の楽士に話しかける。そして、その歌と演奏に反応を示す。趙が楽士でありながら、姿の見えない「神」のようであり、「仏」のように想われる瞬間だ。しかし、一貫して趙は、何も矢野には語らない。この不思議な構図に、観客は、最終景で得心することになる。永井寛孝の演出は、その不安定感、あやうさを、ある種の力業で見事に乗り切った。
 マルセ太郎の『イカイノ物語』でもハルモニ役を演じた矢野だったが、今回の芝居のハルモニと、キャラクターが重なって見えて仕方がなかった。それがねらいだったのか、私の感性の鈍さゆえのことなのかはわからない。
 劇中、矢野が、新鮮な白菜に包丁を入れ、塩をまぶし、一枚ずつていねいにつけた行ったキムチは、いったいいつ頃食べごろなのだろう。ハルモニが「私のキムチにかなうものはない」といいきったキムチも、やがて孫たちの味覚や、時代の趣向のなかで、少しずつ色合いや味わいを買えていくことと思う。けれども、ハルモニの心は、孫たちが、そのまた下の世代が、かつていたハルモニのことを忘れない限り、ずっと受け継がれていくに違いない。
 矢野陽子のひとり芝居『ハルモニの夢』は、これからも同じスタイルで演じつづけられるという。マルセ喜劇を構成した俳優やスタッフたちは、マルセの心を、これから、どのようにな色合いや味わいで、人々に伝えていくのだろう。 (原 健太郎)

    ※東京コメディ倶楽部の『笑息筋』は「もっと笑いたい人のための日本一やすっぽい月刊雑誌」(頒価40円)です。
    【定期購読申し込み方法】
    年間購読料 \1,440(実費+送料)分を切手(80円切手18枚)にて下記までお送りください。
    〒225-0033 横浜市青葉区新石川 4-11-4-203 原 方 東京コメディ倶楽部 (tel/fax 045-912-6602)


●「活字になったパギやん」目次へ●



『マスコミ市民』 2001年8月 391号 

浪速の唄う巨人・パギやん参上 1 (3ヶ月に1回の割で連載)

 あまりにも非道い「日本語」を聴いてしまったので、以下、憤慨して書きます。時々大阪弁や旧正字法が混じりますが、そこはホレ、「行間」を読んでチョウダイな…悪しからず。
 昼飯を食いながら、偶然、NHKの「ひるどき日本列島」という番組をテレビで見たのですが、次のようなエンディングシーンを視聴して、嫌(憎)悪感に駆られてしまいました。

――四万十川でエビ漁をするお年寄りにインタビューした後、女優らしき女性(見たことあるヤツ、名前は知らん)と、アナウンサーの男性の会話。

 女性 「日々暮らしているときに騒音の中でいるので、自然に来てみると心がなごみますね」
 男性 「そうです。ウグイスも聞こえてきたし、この想い出は体に染みつきますね」
 女性 「エビ漁、これからも頑張ってください。ご苦労さまです、本当に、ご苦労様。」
 男性 「どうですか、都会から いらっしゃった方がこんな感想をお持ちになるなんて…」
 漁師 「ありがとうございます」


 忠実に再現しました。もっともっとあるのですが、このくらいで止めときます。それで…韓国人の私が、今から「日本語」教えたるから、よう読むんやで。

<1>「暮らしているときに」は意味論的に存在しない。つまり、こういう連体形修飾は成り立たないのだ。君の暮らしは「一瞬」か?あるいは「条件」として語るほどに非日常的な暮らし、なんだね。
「暮らしていないとき」君は何をしているんだい?
「東京で暮らしていたときに」などと、連体形過去と「とき」の修飾関係は成立するだろうが「暮らしているとき」はどう考えても無理だ。
「暮らしていると」「暮らしていて」あるいは「騒音の中で暮らしているので」 と言い換えませう。

<2>「自然に来てみて」は「自然の中に来てみて」「自然の山懐に来ると」などの表現に変えるのが妥当。「自然に来る」は「来たのが人為的または不自然ではない」という意味で、あなたが意図した表現には相当しない。

<3>「ウグイスも聞こえる」は不可。「ウグイスの声」「ウグイスの啼くのが」聞こえる、等が正しい日本語でっせ。なぜなら、ウグイスは音でも唄でも、声でも噂でもない。実態と質量を持った生物(小鳥または野鳥)という実在である。それを「捕まえ」たり「殺し」たり「見た」り「飼う」ことはできても「聞く」ことはできない。まして「聞こえて」きたりは、絶対にしない。
「ウグイスも聞こえる」の「聞こえる」は自動詞。つまり、耳が聞こえなかった烏も雀も聞こえるようになり、「ウグイスも聞こえる」ようになったんだねー。

(だんだん、腹立ってきた!)

<4>「想い出が体に染みつく」…そんなコぎたない[汚い]想い出なら、今すぐ四万十川で洗い流せ!

<5>「ご苦労様です」は目下か対等な立場の人間にに使う言葉。ゲストのお前が主人公の漁師さんに向かって「ご苦労様」はないやろが。
しかも2回もヌカシやがって。
オンドレ皇室の人間かい? 馬鹿な下司野郎め!!
女優が聞いて呆れるワイ。

<6>この場合「…いらっしゃった…お持ちになる」は、敬語の使い方として全く不適切。これが客を迎え入れたホスト側の言い方ならわかるが、取材に来たお前が何様のつもりでアホ女優を奉るんや?ここに私は、歴然とした「漁師差別」を感じ取って、総身が震える思いになった。
ワシが漁師なら、てっメえぇぇ、川にたたき落としとるど!
こらぁぁ、アナウンサー辞めてまえ、このドアホ!

 日本人のみなさ〜ん。国語は正しく使ひませう。


●「活字になったパギやん」目次へ●



朝日新聞名古屋版01年7月14日夕刊より 

浪速の唄う巨人 趙博が七ツ寺でライブ



●「活字になったパギやん」目次へ●



チカップ美恵子『アイヌ・モシリの風』より 

魂の調べをうたう

 詩人たちの語り口は往々にして、美しく味わい深いものがある。詩人の魂が言葉をうたわせるのだろう。まさに言葉の芸術だ。言葉が美しいメロディーをうたうとき、言葉は国境を越える。たとえ、その意味がわからなくても。
 大阪在住の在日コリアンニ世の音楽家、趙博さんの歌はハングルを借りるなら、シンミョンナゴ(忘我の境)に達する音楽だ。趙さんはフォークからロック、ブルース、韓国古典音楽、はては浪曲と実に幅広い。1999年春に初のソロアルバム『ソリマダン(音の広場)』をリリース。ハングルと日本語の歌がさりげなく調和しているところが心にくい。私はハングルはわからない。なのに、そんな私をもとりこにしてしまうのは、趙博さんがやはり詩人だからかもしれない。いや、それ以上に「在日」を生きる彼の魂の調べが、聴く者の心を打つのだろう。
 「♪ソウルからピョンヤンまでタクシー料金は五万ウォン/ソ連にも月の世界でも  行けないところはないのに/光州よりもっと近いピョンヤンには行けない」
 趙さんのミレニアムCD『ガーリックちんどん』に収録された「ソウルからピョンヤンまで」のフレーズである。
 趙さんは大地を揺るがすような野太い声で、ハングルと日本語でダイナミックにうたう。先ごろ、統一への第一歩となるであろう南北の両首脳、韓国の金大中 大統領と北朝鮮の金正日 総書記の会談が実現した。在日コリアンが待ちに待った「統一」がもはや「夢の中」のことではなくなった。
 同じ民族でありながら、政治的イデオロギーの渦中に置き去りにされた人びとは故郷を分断され、身内の安否もわからず、またそれを知る手がかりもないままの半世紀だった。
 「♪統一できたなら/離散家族を乗せて行こう/帰り空車なら/泣いて逝った兄弟達の/古い手紙と冤魂でも/引き取って帰って来ようか」
 趙博さんのハングルの詩はこう続く。冤魂というのは、無実のうちに亡くなった人や無念の死を遂げた人のたゆたう魂のことである。
 まだまだ道は険しいかもしれないが、趙さんや在目コリアン、そして南北両民族の祈りが、混沌とした時代の幕を閉じ、21世紀の幕開けに一筋の光を導いたように思う。(読売新聞 2000年6月27日、他)
※本文中のルビは省略させていただきました。

〈紹介〉
『アイヌ・モシリの風』 (チカップ美恵子・著/2001.6 NHK出版 刊/\1,500) ※みんな、買って読みましょう。

    〈目次〉
    口絵 アイヌ文様剰編の世界 → カラー写真12点。豪華です、華麗です、たくましいです。(paggie)
    創造のうたを布の上に
     第1章 母と娘のアイヌ・ラックル
      カムイ・チカップのように/サルルン・チカップ・リムセ/刺繍を一生の仕事に/母とウポポ/大地は子孫からの借り物/アイヌ・ラックルの世界
     第2章 天と大地とピトゥ(生活空間)
      生と死の永遠/オーロラ/天空へのかけはし/月の花・ジャスミン/人生を彩る四季/ミズバショウ/霧と虹/霧の中の景色/七夕/雨の日のメルヘン/コパカバーナの浜辺/逃げ水のような時代/月のしずく/秋色と果実酒/ウコンの色/木々との結びつき/水へのいたわり/風邪薬/アジサイとサビタ/海の上を走るうさぎたち/古代のファッション/コンクリート文明の対極にあるもの/うるまとサンゴ/さとうきび畑で/沖縄の壺屋/サンゴ/コンブの森
     第3章 ふれあう心
      イランカラプテー/トーテムポールの里に息づく「ウミスタ」/響き合うトンコリの音色/太鼓の町・浪速で/笑顔と悲しみと/すきま風/萌える春におもう/「エンパワメント」という言葉/セワポロロ―招福の便者/星になったハツコフチ/フレップの思い出/こころの灯/樺太アイヌの兄妹/島唄とアイヌ文様/魂の調べをうたう
     第4章 沖縄、太陽のクニの光と影
      こころを紡ぐ/沖縄の聖地と「アカインコ」の未裔/沖縄とアイヌ民族をつなぐ心/「手」にこめた共通の思い/「雪のクニ」と/「太陽のクニ」/沖縄に押しつけられた米軍基地/像のオリ/チャランケと民主主義/特措法は新たな沖縄差別/税金と基地問題/沖縄は21世紀も「軍艦島」?/沖縄の南風
     第5章 先住民族の析り、それは生き方
      地下壕はマイノリティーの歴史/コンサートを終えて…/地球サミットと先住/民族/母なる大地、ニュキマプと生きる/「地下の民」の魂が戻るとき/精神の浄化/セイクレッド・ラン、聖なる析りの走り/平和の析りが日本を縦断する/魂がふれあう日はいつ?/シンキョンの森/土地と霊性を取り戻すために/アイヌ・モシリ、北方四島をめぐる旅/国境を問う/台湾への旅
     第6章 アイヌ民族の誇りをつむぐ
      民族の誇りをかけた闘い/「生体標本」の研究姿勢を問う/心通いあう共生の大地へ
     生命のめぐりの環に生きる―あとがきに代えて


●「活字になったパギやん」目次へ●



演劇総合雑誌『テアトロ』2001年7月号より 

列鳥南西の海辺から――「イカイノ物語2001」を観る

牧 武志(劇団 海風 主宰)


幼なじみの在日、金Kへ
 美味しさにほほを緩ませながら、火鉢で焼いた干魚のニギスを頭から順にむしゃむしゃやったのを憶えているだろうか。1950年代初め、ぼくらは富山県魚津市下中島小学校五年、担任だった笠原先生が宿直の日だ。先生が学校に泊まる日をねらって何度一緒に枕をならべただろうか。食べ物に不自由していたころのあのほっくりとした味を忘れられず、つい最近も魚津から買って帰ったほどだ。
 ところで、突然にお便りするのは大阪の趙博という楽しい音楽家のこと、私たちの少年期を思い出ざずにはおれない、マルセ太郎追悼公演「イカイノ物語2001」について話したいからだ。

      米軍の空襲で燃えたところに 闇市が今もあって
      日本の中にも韓国がある
      ここが猪飼野 キムチの臭う街
      朝鮮部落とよばれたのに 今じゃ恰好いいコリアタウン
      橋の下のどす黒い水が 俺たちの歴更を知っている
      大阪環状線鶴橋駅を降りて 俺は今日も酔っぱらい
      千鳥足で帰るだけ

 CD『ソリマダン』に収録されている趙博作詞作曲の「橋―ニンニクちんどんVer.」の歌詞の一部だ。景気良くチンドン屋風のリズムで演奏されているので辛い言葉も吹っ飛んでしまう心地いい曲だ。といっても歌われているのは朝鮮語、ここに挙げたのは作者自身が訳したものだが。
 趙博さんに会ったことはなかったが、野太い歌声が好ましく、歌詞も興味深いので通信販売で求めた二枚のCDをよく聞いていた。そしてご三月の末、彼から「役者として九州に上陸します!」との短信に「イカイノ物語2001」を観る機会を得たのだ。
 それは4月18日福岡市ももちパレス。舞台は大阪市生野区緒飼野、在日朝鮮人、金家の居間、近くのスナック・バーなどで繰り広げられる数年間の暮らしの移り変わりを措いたものである。テンポ良く、おもしろおかしく、ときにせつなく悲しく流れていく様子はほぼ満席の客を十分に共感させたが、また、穀然とした芝居でもあった。送り手と受け手、作る側と見る側の間に目には見えない画然とした一線を感じることができるからだ。私には大切なことである。
 「在日朝鮮人は、日本の朝鮮植民地支配の歴更的所産である」というのは厳然たる事実だ。しかし、だからといって多くの在日がいわゆる被害者意識の中で生を紡いでいるわけではない。それはあなたや高校時代からの友人、朴Tをもつ私から見れば明瞭だ。もちろんこの国の政治や人の心のあり様の頑迷さ、身勝手な保身などを前になにもできずにいる私が許されるわけではないのだが…。
 人が生きていく中に現れる悲喜割、それは民族を超えた人の姿であり、人の証しである。この物語に登場する入物のほとんどが在日朝鮮人だが、彼らの暮らしの明るさたくましさは見る者を圧倒していた。しかも、日本と日本入に向かう刃を秘めながら。
 かなり交通の便が悪い地にある私が劇場に出かけることはめったにない。またマルセた郎の舞台を体験したこともなかったのだが、久方ぶりに習熟した人たちの手になる芝居を見ながらさまざまな想いが湧きあがってきた。
 兄「ごはんつぶ」
 弟「おーい、ごはんつぶ持ってきてェ」
 最初に聞こえてくる台詞はかなり意味深い。特に二つめの台詞は大声で叫ばれるのでなおさらそう思える。それは糊の代わりのごはんつぶなのだが、ごはんをたべる日常とその重さ、ごはんを食べるような日本語などを想起させる。
 芝居を作る側にある私は、同じ立場の人が多分にそうするであろう自分の作法との相遠を考えながら見ていた。一家族、親類縁者の生活の歴史を綴る家庭劇という感じがする物語を額緑の外から見せてもらうこの芝居は、冒頭の場面から台詞、装置、衣装、そして役者たちの演技がリアリズムの基に作られているのがわかる。私は漠としたアバンギャルドを自称しているので、日常を写す具象と想像された抽象、豊穣な現実と脳裏に浮かぶ夢、リアリズムとアバンギャルドについて想いを巡らして観ていた。そういえば主な舞台となる居間の壁に「夢」と墨書された額が掛かっていたが、それは登場人物たちが望む彼岸の存在を感じさせる。人にとって現実と夢は互いに補完しあっているものかもしれない。
 劇場でもとめた上演台本によって、各場の小題を捨いながら物語を追ってみよう。話の主な軸は母と兄弟と妹の愛情物語で、兄弟妹はあなたと同じ在日二世、結婚適齢期の子どもがいる私たちの世代だ。

    ・祭祀――亡父の法事の場。母と息子娘、その子どもたち、親類縁者など芝居に登場する人物が居間に出揃い、今と昔の情混が語られる。そして兄弟喧嘩。(妹の子が東大を出た医者なのは朴Tと同じだ)
    ・コスモス――――スナック・バー、コスモスで兄弟と妹の愛情が語られる。(バーの命名にも作者の思想が覗いている)
    ・大阪からの電話――――弟から兄への愛情電話。
    ・ある日の団欒――――母を囲んで昔の暮しなどが語られる。
    ・大阪からの電話二――――弟から兄ヘ、妹の病ガンが伝えられる。
    ・手術の日――――妹の手術は手後れだった、また兄弟晴嘩。
    ・町子の死――――娘の急死に号泣する母。
    ・母のボケ症――――母は記憶の一部を失い、徘徊を始める。
    ・結婚式の日――――兄の息子と日本人子女との婚札の後、コスモスに集った兄弟、親類の談笑と歌。

 作者であり演出者であるマルセ太郎自身の家族をモデルにしたといわれるこの物語は、愛情という言葉をなんども書いてしまったように、各々が多くはむき出しの愛を、また、何人かはひかえめではあっても確とした愛を表しながら、さらには喧嘩をしながら、よどみなく流れていく、客席のすすり泣きや爆笑を伴いながら。リアリズムの力強さだろうか、人々の共感を呼ぴ、生きることへの励ましを送ってくる。
 そして幕が降りる前の心を濯ぐような場面を書かねばこの芝居を語ったことにはならない。結婚式の日、コスモスで家族と縁者が歌う場が急転すると、自い照明の中に純白のチマチョゴリ姿の母がパンソリを演じる情景が現れる。それは清涼とした美しざだ。母の役をになう俳優が溢れる情感を抑制して響かせる歌声、人を包み込むような柔らかい手の動き、衣装の清楚さが胸に追った。在日として母として入として生きることの美しさが凝縮した感動的な場であった。ひょっとしたら、母親役の矢野陽子さんはその場に到達する全ての演技者の努力を一人でさらってしまっていることに罪悪感を抱いているのでは、と思わせるほどなのだ。
 この場にはそばに亡くなった娘が寄り添っていることから母の死を暗示しているとも、想像された夢とも考えられる。しかし、ここに至るリアルな表現から実如として現れたことに遠和感がない。むしろ、このような形で母の存在が明示されることは受け手側の希望に沿っている。具象から抽象への飛躍が結実しているなどと言えば一人合点だろうか。
 というわけで、少年期から生意気な私も満足したか、はい。もとはといえばあなたに良い作物を知らせたくて書いているのだから。けれど、芝居の魅力は役者の魅力、と考える者から無い物ねだりの一言させてもらえば、モンスターのような在日を観たかった。
 趙博さんには礼をいわねばならない。でも芝居では役柄ゆえか神妙に見えましたと青き添えたい。
 当日の客席では劇団海風を二度お招きいただいた宮崎県高鍋「野の花館」の則松さん夫婦、「関釜裁判を支援する会」の花房さん夫婦とご一緒でした。
 楠の緑が初夏の陽光を受けていっそう色鮮やかです。
 どうぞ、お元気で。


●「活字になったパギやん」目次へ●



No.5●2001年上半期


『まるまる一冊 マルセ太郎』(早川書房、\1,800 / '01.6.15刊)から 

「マルセ病棟日誌」 趙 博

 趙博@大阪第二病棟です。
 一昨日、突然マルセ太郎が猪飼野へ出現しました。電話一閃i!…「マルセです。今、弟のとこにおるねんけど、今晩空いてるか?一緒にメシでも」
 空いてるも何も、仕事(河合塾のテキスト原稿書き)なんてうっちやって出かけました。
 私と女房、娘の蘭水[ナンス]は豊鈴[フウリン]という店に直行。豊鈴は、マルセ・ママの弟さんがやってるお店。
 ここの女将(弟さんの奥さん)が、また、昔からの知り含いで、特に私の義母とは「お寺で一緒に修行した」という深い伸。マルセ太郎夫妻、てっちやん(劇中では勝治)夫妻、そして私たち。こんなライヴは贅沢の極みです。

 てっちゃん 「あの芝居はホンマよかった。ところで、最後の音楽、あれ、ホンマ兄貴やったのか?」
 趙「いえ、まあ、私がアレンジして、プロデューサーはマルセさんです」
 てっちゃん「踊りも?」
 マルセ「みんなわしがやったんや。わしが演出したんやないかい!」

 …二、三回ぐらい、この同じ会話が続きました。てっちゃん、だいぶ酔ってきた。
 豊鈴は完全に『イカイノ物語』です。実は、てっちゃん、私の女房の父(今年五月死去)は同じプレス屋仲間で、昔からよく知っていたとのこと。義父の工場で働いていた職人さんがてっちゃんとこの「きんばらプレス」に今もいる…女房は懐かしさの余り、ほろり涙をこぼして、「このひと、まるで一世やなぁ」「ういるせい!わしはチョーセンきらいじゃ、一世言うな。わしは二世じゃ!」
 またまた大爆笑。涙と笑いと旨い酒…マルセ喜劇そのものです。
 店を出て、てっちゃんが吾が娘に「お前、プレス屋だけにはなるなよ」と言えば、娘は「オマエちゃう、蘭水[ナンス]や!」
 …猪飼野のガキは負けてまへん。
 「なでしこ(劇中ではコスモス)行こ!」
 てっちゃんは上機嫌。私は猪飼野の最も一般的な交通手段であるチャリンコに乗って、「先に車で行ってください。あとで追いかけますから…」と告げ、五分後になでしこへ。
 マスター「久しぶり、夏の芝居以来ですなあ」
 趙「ご無沙汰してすんまん。あれ、師匠と奥さん、それに、てっちゃん、まだでっか?」
 待つこと十分。おかしい、事故でも…と思いきや、二人が喧嘩しながら入ってきた。
 マルセ「なんじゃい、あの口のききかたは!相手は年寄りの運転手やないか。道を間違って教えたんは俺や。赦さんぞ、オマエ。なんで弱いものをイジメるんや。ボケ・アホ言うて、運転手かわいそうに怯えとったやないか」
 てっちゃん「何もイジメてないやないか。どこ走ってんねん言うたんや」
 マルセ「嘘つけ!ここへ着くまでいじいじと、オマエが運転手に言うた言葉、今ここでそのまま言うてみい!」
 (事情は飲み込めた。めちゃくちゃな追力で二人とも言い合う)
 てっちやん「こいつだけは、いつもそうや。お前の都合ええようにだけ言うな!」
 ママ「もう、やめて。太郎さんも悪いし、てっちゃんも悪い!」
 マスター「てっっちゃん、ええ帽子かぶってんのに、ミットモないで」
 てっちゃん「もう大阪に来[ク]な!…言うても来[キ]よんねん、このアホ」
 マルセ「自分の兄貴におまえとか、アホとか言うのはオマエだけじゃ」
 てっちやん「マスター、この帽子、やろか?」

 これは一体何や?わたしや近鉄劇場におるのかな…?
 やっとこの辺から、日常会話に戻りました。
 二人の間に座っていた私は、口げんかを止める気になれず、じっと劇をみている錯覚に陥りました。いや、ずるく「観察」していたのかもしれません。
 マスター「カラオケでもどうでっか?」
 マルセさんは『私のすべて』を歌い、てっちやんは、やはり『人生の並本道』。マルセさんは旨いですよ!私はリクエストにお答えして『青葉城恋歌』。
 夢のような時間が過ぎて、11時過ぎに解散。別れ際にママが「イカイノ、是非、再演したい。絶対やろうね」と熱いメッセージを…。

 帰ると女房が友達二人と飲んでいた。我が家でもイカイノ&マルセ談義…。結局寝たのが朝三時…昨日はその後遣症で何も出来ず…。
 精神にざわめて良好な、そして身体には極めて悪い「中毒」症状です。
 イカイノ再演! 猪飼野でなんとか、やりたいですね。 (99年秋のお話)

※ 全国マルセ中毒患者会機開誌「さるさる」第9号より加筆の上転載。

    『まるまる一冊 マルセ太郎』(早川書房、\1,800 / '01.6.15刊)
    〈目次〉
    ◆マルセ太郎のキネマ館 / コメディアン / 「コメディアン」の笑い / 『天井桟敷の人々』 / 『泥の河』 / 『生きる』 / 『ライムライト』 / 『息子』 / 『黒い瞳』 / 『祝祭』 /『ダメージ』 / 『アマデウス』 / 『無法松の一生』 / 『舞踏会の手帖』
    ◆対談・マルセ太郎/山田洋次
    ◆座談会「昔の話でもしましょうよ」 マルセ太郎/玉川善治/篠原公雄/一色涼太/内田直樹/今野誠
    ◆マルセの居場所  矢野誠一
    ◆マルセ太郎の動物談義
    ◆マルセ太郎お別れ大宴会・前説 永 六輔 / エッセイ 『マルセカンパニーは…』 永井寛孝 / 『マルセ病棟日誌』 趙 博 / 『マルセ流映画の見方』 金 梨花
    ◆映画・演劇鑑賞記「見たいから…」


●「活字になったパギやん」目次へ●



『月刊 むすぶ』ロシナンテ社 No.363 ('01.3) 

インタビュー:ええかげんにせぃ・ニッポン!「国旗・国歌」法制化に到ったニッポン、その傾向と対策

                   ミュージシャン・河合塾講師  趙 博 

     

□■趙さんが2000年6月に出したアルバム「ガーリックちんどん」に「君が代」のパロディがありますが。

 まず日本という枠組み、それは多数者の日本人が思っている枠組みと僕、「僕ら」といってもいいかな、僕ら日本に住む「非日本人」が思っているのとは完全に違うんだということを表現したかったんですね。
 「島国日本に住んでいるのは日本人」というのがあまりにも当り前になってますが、全然そんなことはないのであって、日本には日本人だけが住んでいるわけではない。けれども「日本には日本人しか住んでいない」という前提でこの国は成り立ってしまっている。そこを、なんか揺さぶりたいと僕はいつも思っているんだけど…革命という言葉を使ったこともあるし、革命といわなくても概念崩しとか、「ちょっと皆さん冷静に考えて見ませんか」という意味をこめて「在日日本人」という言い方を僕はします。
 「日本人は日本人だ」「日本には日本人が住んでるんだ」と常識で思っているところに「くすぐり」をいれたい。「僕が在日朝鮮人・韓国人なら、あなた方は在日日本人でしょう」という言い方でね。「ニッポンてなんやねん」というキャッチ・コピーを、僕なりの批判を込めて、毎年コンサートの冠にも使ってきましたが、去年は余りにも非道かったで「ええかげんにせぃ・ニッポン!」としました。
 日本の常識には、余りにもウソが多いです。歴史教科書を見ても、学校で習うのは「日本は昔から日本」で「時代や政治形態が変わってきただけだ」という、そういう説明の仕方がされている。とんでもないことですよね。例えば11世紀に「日本人」がいたかどうかというのは非常に疑問ですよね。古代において「日本人」は存在したか? そういうことが全然話題にものぼらないし、疑問が常識にならない。僕は苛立たしい。
 自分の問題に引き寄せて言うと、「朝鮮人だからだめだ」とか、「朝鮮人だから排除される、差別されてる」と、僕は20ぐらいまで長いこと、こっちの責任やと思ってきたんですけどね、ある時気づいた。「やっぱり日本人の責任や、こいつらに騙されたんや」と。
 だから僕はいつも言うんですよ。在日朝鮮人問題とか、部落問題とか障害者問題とかまさしくその〈問題〉なんだけれども、ほんとは「在日日本人問題」なんだよね。部落問題とは「一般地区」問題だよね。障害者問題とは健常者問題で、女性問題って男問題だよね。僕はそんなふうに捉えています。
 水平社宣言にある素敵な表現「刑冠を投げ返す」というのはそういう視座の典型だろうし、親鸞の悪人正機説、「善人名をもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」も同じ思想だと思う。親鸞以前までは「悪い人でも救われるんやから、ええ人は絶対救われんねんや」だった。親鸞はそれをひっくり返したわけ。その辺はすごく僕は好きなのね。キリストは「金持ちが天国に行くのは、駱駝が針の穴を通るより難しい」と言った。やっぱりこれらは「価値の転換」、つまり異化の神髄ですね。
 「日の丸・君が代」を国旗・国歌だと法制化した。ならば、「君が代」は一応〈歌〉ですから、「中国語で歌ったらどうなんねやろ」「韓国語で歌ったらどうかな」「英語でやってみたろか」と、そういう〈はぐらかし〉をやってみたかった。メロディーも、河内音頭で、詩吟で、都都逸でやってみる。すると全然合わないんですよ。あの歌詞にぴったり合うのは実はロシア民謡だった。そういう「はぐらかしと揺さぶり」くらいあってもいいじゃないか、このくらいの自由は「俺の自由」としてやったるで、という感じやね。
 結構面白いのか、聴衆は一様に腹抱えて笑うんです。なんでオモロイの? そこを考えたら、もっと面白いかもね――という誘い水です。そういうことが今までなさすぎたんじゃないかな。もちろん「『君が代』いやだ」とか「反対だ」とか運動は大切だけど、歌そのもので遊ぶべきだ。ライヴでは、皆さん笑って拍手喝采してくださる。「また今度もやってくれ」という誘いもある。「神聖にして侵すべからず」を侵しているような、そんな快感があるんじゃないですか。そんな大層なモンやないねんけどね。

□■「ヘライデ」という、いわば天皇家を茶化した歌もありましたね。

 あれは岡林信康という人の歌だった。七〇年代は誰でも歌ってた。僕はふざけてCDの歌詞カードに日本民謡と書いたけど、違うの。曲はどっか外国の民謡だよ。
 「ガーリックちんどん」は日本人の皆さん、こんないい歌が日本にもありましたよっていう、「不逞鮮人・趙 博」からのプレゼントです。

□■「日の丸・君が代」法制化についてはどう考えておられますか?

 もちろん歴史的にはいろいろ言いたいことはありますよ。だってみんな分かってるんじゃないの、だめだっていうのはね。「日の丸」が日本の旗でやね、「君が代」が日本の歌だって心底思ってる奴はバカですよ。「歴史」という字義すら知らない大バカ野郎だ。でも「バカがバカにならない」力学が働いているんでしょ。それを法制化することによって、教育現場に持ち込むことによって「何かしよう」という、そっちのほうが本体で、これが見え見えなわけですよ。
 「日本のいやらしさ」って俺、そこだと思うなぁ。分かってて悪いことするんだよね。全部そうでしょ。公害にしたって、「しまった、ごめんなさい」じゃないのよ。分かっててやるんだよ。そして、とぼけるでしょ。「国益だ」とか「公共の福祉だ」とか言って煙にまく。どうも好かんね、そこがね。だからこっちもちょっと煙に巻いてやろうかと、思うわけです。
 明らかに、日本のある一部の人たちはこの国を戦争ができる国にしたいんでしょう。軍隊を持って堂々と海外に行く、それを侵略とは言わない仕組みが欲しいんですよ。侵略したいと思っているかどうかは分かりませんが、とにかく軍隊を兼ね備えた国家にしたいというのがあるんでしょうね。憲法を改訂して、できれば徴兵制もやりたいと思っている。経済的な利益があるんでしょうね。いろんな利権や既得権、そのようなものが絡み合ってそっちの方向に行こうとしているんでしょう。
 もう一つ思うのは、今から10年後「親になった人たち」の教育というのが絶対必要になるだろうね。子供を育てられへん親が急速に増える。ひょっとしたら「社会」という実体が崩壊してしまって壊死状態になってるかもしれへん。米国の50何番目かの州になっているかも…。そういう崩壊のイメージが僕にはある。「日の丸・君が代」の問題というのは、多分その入り口のような気がする。
 まっとうな保守主義者でいいから出てきてほしい。保守本流がちゃんと物を見て、ブルジョワ民主主義でええから、吉田茂ぐらいの人でも出てけえへんかな。三島由紀夫でもええわ。三島レベルの右翼がいたら、もうちょっと建設的な議論ができると思うけどな。

□■「日の丸・君が代」はオリンピックなどでも使われたりしていますが、どう見ておられますか?

 オリンピックで揚がる「日の丸」と、教育現場で揚がる「日の丸」は違うと思うんだよ。いつもそれが混同されるでしょう。「オリンピックで掲げてるじゃないか、いいじゃないか」って。それは使こたらええがな。だれも迷惑せえへんねんから。それをなんで、あえて押し付けるのかって…そこは煙に巻かれたらだめなんですよ。パソコンのOCRソフトでも「日本語認識」のボタンは「日の丸」になってる。その時「糾弾!」なんて言うてたら仕事できまっかいな。マーク・記号としての「日の丸」は「なんやねん!!」って思わへんやろ。それに変わるモノがない、という意味において、その程度のことでしょ。
 本来ならばみんなで国旗や国家を決めるのがいいと思うんやけど。その能力が今の日本人にはないと思うんですよ。「じゃ、やりましょう」って言っても、何とかデザイナーとかが出てきて商売になったりする。それが今の日本の実態だと思うよ。国民を取りまとめる能力なんてないんですよ。本当に、「誇りうるわが祖国」だと思えるよ
うな契機は存在しないと思う。民衆のためにこの国が存在したことがあるのだろうか。
 もしも、自分の民主主義を自分でつくったという「国民的記憶・民衆的経験」が「日の丸」に込められていたならば、誰が反対しますか。そうじゃないから、問題じゃないの?血と差別と、そして屈服と同化、卑怯と服従の象徴――が「日の丸」で、天皇の統治は永遠に続く、それを讃えます――これが「君が代」じゃないですか。それを日本人が「国民」という単位・次元で、本当に認めたのだろうか?
 こないだサハリンへ行ってね。俺、ロシア語がちょっとできるから、リップサービスのつもりで、ロシア語で『国際学連の歌』を歌ったら、本気で「やめてくれ」って言われた。「そんな歌何年かぶりで聞いた、なんで知っとんねん。やめてくれ」って。ロシア人にとってはインターナショナルとか革命歌は「君が代」と同じなんですよ。どんな美味しいもんでも、どんな美しいものでも、他人から強制されたものは美しくもないし、美味しくもない。
 だから「『日の丸・君が代』がいいんだ」と言う人はその合理的根拠を示してほしい。例えば沖縄の復帰運動の時に「日の丸」を振った。それはすごく共感できる。米国支配からの脱却の意味で振った。「日の丸」に共感するのではなくて「その旗」しかなかったという状況――それはに共感できるじゃないですか。
 それと同レベルのことを、一般の日本人に言ってほしい。「日の丸でなければいけないんだ」という人間的叫びを聞きたい。「君が代」にまつわる、こみ上げる共感のコトバ、万民が涙する心暖まる経験談を語ってほしい。そうしたら、俺「日の丸・君が代反対」を撤回してもいい。でも言えないんだよ。言えるはずがないんだよ。だから、ウソつかんほうがええ。本当にそう思うよ。

□■昨年6月南北会談以降、統一旗があちこちで見られましたが、あの旗についてはどう捉えておられますか?

 あれも気持ち悪い。大将同士が「手打ち」しただけでっせ。何が変わったんや? あれだけ北朝鮮に飢餓があって、家族が会えなくて、何が統一じゃ。ふざけたことをヌカスな。僕は全然否定的ですね。HPにもちょっと書いたけど「万歳」言うとる奴は、何がどう良くなったのか、具体的に語ってほしい。金正日はヒットラー以上の独裁者ですからね、冷静に考えてみたらいい。喜ぶのはいいねんけど、手握りおうてそれでチャラになるはずがない。だったら天皇が総連に来て、手握りおうて「今まで、ごめんね」言うたら、それで許すんか?そんなことあるわけないやろ。
 感情に訴えるときこそ、冷たい理性が必要なんです。そんなイロハも忘れさせる絶大な政治的ショーアップでしたね。今後をしっかり見守ります。けど、あの青い旗は芸がない。日本ではまともなコメント一つでてまへんなぁ。「よかった、よかった」褒めてますよ〜、と他人事ですね。

□■現在の右傾化する日本の状況に対して、どうでしょうか?

 残念ながら、対抗する人たちがの力が非常に弱くなってきている。特に日本の国内的には国労を解体した、あそこからだと僕は思っている。あのときまでは、いろんな労働者の問題とか環境を守るとか、人権を守るとかそういうのが一つの「圏」としてあった。今や、団結して仲間を守るということがなってきているという気がする。僕は国鉄民営化の時に「なんか変だ、いやだな」と思った。あのときの印象は、僕なりの表現で言うと「労働者は仲間を裏切ってもいいんだよ」という公式宣言だったんじゃないのかなと思うね。それを労働者の側も認めた。自分さえ生き残ったらいい。ちょっとは「ごめん」とは思ったのかも知れないけれど。まぁ「1000人残すためには、二人ぐらいいなくなってもいいだろう」という価値観を受け入れたんだね。その負い目というのが今、いわゆる反体制というか、左翼の足を引っ張っているという気がするんだよね。正義を正義として、堂々と言えない。後ろめたいんだよ、みんな。そういう気がするのよね。
 これは非常に厄介な問題だ。「問題」ごとに戦線が分断されて、他人のことは考えられない、生き残りが大事だ、なんてね…。寒いなぁ。それぞれが繋がらない限り、今の閉塞感はおそらく続くと思うね。そして結局は、みな「戦争をしたい国家」に行ってしまう気がすんだよな。
 ところがね、ズルっと行かないのは、今の若者に代表されるようなダラ〜ッとした市民社会のおかげなんでしょうね。これがビシっとしていたら、まあ、明日にでもクーデターが起こるでしょう。今、徴兵制をやったってだめですよ。道端に座ってダベることしかできんような奴に戦争なんかでけへんもん。上官の命令が理解できないような
低学力者は戦場では即死や。だからそこをボランティアで鍛える。そして「日の丸・君が代」をやっとけば、一人や二人ぐらい「純粋」なやつ、優秀なやつ、日の丸のために喜んで死ぬようなやつも出てくるだろうと。そう踏んでるんじゃないですか?
 まあ今は戦後民主主義、いろんな言われ方をするけれども、冷戦後の対抗勢力の負け状況だね。かと言って抵抗をやめるわけにはいかんでしょう。「運動側」に危機感はあるのかな? いい意味での危機感が。

□■学生の運動がないと言われていますが、そのことについてはどう考えておられますか?

 僕は何の期待もしてないですね。いつも授業で生徒に言うんですよ。絶対そっちのほうに君たちは行くやろ、つまり「資本と国家」の方に。民衆のために闘うって言うやつなんて100人に一人もおらへん。そりゃそれでええけど「俺のじゃましやがってみい、ぶち殺してやるからな」って、いつも脅しているんです。若者には若者の未来があるやろう。未来を担保に入れてまで無茶しようとは思わんやろう。けどな、俺ら老人はもう死んでもええねん。命賭けたらどっちが強いか分かるやろう――これくらいの脅しはしてる。
 だからといって、いま少年法の改正とか言っているけれども、国家にそれをやらせてはいけない。しかし、今のクソガキには俺流の脅しぐらいは言うべきだよ。何で言わないのかな「やめろ」って。俺、いつも気分悪い。俺の前でタバコぱーって吸いやがって。なんで俺がお前の煙を吸わなあかんねん。カシャカシャッて、何で俺がお前のウォークマンの音を聞かなあかんねん。俺の前で汚い化粧するな!携帯で喋るな…これはエゴとエゴの対立ですよ。エゴは強いほうが勝つ。だから俺がいつも勝つ。
 でも「勝ち負け」なんて、無くなるべきだ。でも、この「非社会性・無他者状況」は深化します、確実に。そのうち、平気で人前でセックスしだすんちゃうか?

□■今の学生を見ていても、少しでも運動をやっている学生を見ても、その数は圧倒的に少ないですが、趙さんのころはどうでしたか。

 まぁそれはそうでしょう。俺らのときだってそうやったから。かろうじて多数派になったときもあったけどもね、絶対無理ですよ。団結する必要がないんだもん。倫理的に圧倒的に「そうや!」と思うものがない。今の学生は今の生活で満足しているんでしょう。世の中を変えようと思わないもん。そこはそう覚悟していたほうがいい。
 僕の場合、「いい子ちゃん」主義は感性的に拒否反応が出るわけよ。むかし「諸要求実現」なんてアホなことを民青諸君がマジメにやってたけど、「みんなこうしたいでしょ!」っていう主義ね、反吐が出るね。今のコギャルが「これほしいよー」っていうのと同じやね。
 一方で、ヘルメット被って、竹ざお持って、「革命」と言いよる。笑ろたね。「命賭ける」言いよるから、こっちが命がけで突っ込んでいったら、「ごめんなさい」って言いよるし。中には何人か、まともなやつも少しはおったけど…。

□■私は「日本人」ですが、朝鮮人の学生と一緒に同じビラを撒いていても、共有できないところがあると思ってしまうんです。

 それはそうだろうけれども、そんなこと気にしていたら一緒にやれないよ。たまにそんな話をすればいいのであって。日本人の贖罪意識というのも嫌なんだよな。分からなかったら「分からない」と言ったらいいし。それで普通なんだから。
 差別されるほうはね、二つの視座を持てるんですよ。分かる? 僕なんかやったら朝鮮・韓国の目と日本の目を持たざるを得ないでしょう。男と女も同じですよね。女のほうが女の立場も男の立場も分かる。そういうふうに考えたら、差別する側にいると、ものが見えにくいんだよ。見えなくなっているわけよ。
 僕が言いたいのはそこやねん。「いつまで俺らに説明させんねん、こら!」って。「よく分かんないんですけれど、どう思われますか」って、それがまさに差別なんですよ。想像力が欠落しているんですね。その立場にはなれないけれど、限りなく「その身になって」想像はできるはず。自分なりに分かる、あるいは分かろうとする努力はできるはず。このことに社会全体が早く気づいてくれと、思う。
 マジョリティーが「これからいい社会を築いていくには、マイノリティーの知恵が必要なんです」と言ったら、どれだけ多くの問題がほぐれるだろうか? そういう意味で若い人の方が感覚的に鋭いのかも分からんね。すきっと、想像力豊かな若者がいるよね。たまにびっくりすることはあります。

□■大学に入って、中国人の友達に「『日の丸』は気持ちが悪い」と言われて、初めて「そう思う人がいるんだ」とはっとしました。

 そうだよね。自分と違う意見の人を初めて聞いて、それで自分を相対化できるわけでしょう。何か矛盾しているかも知れないけれど、世の中変わらないかも知れないけれど、自分がタタカイをやめちゃったら終わるかも…っていう、生き方の問題やね。社会を変えていこうと思い続けることと「人生・幸福」というとこが、日本では直結しない。
 そういう意味では、もう一度、一から始めてもいいんじゃないかね。いろんなところでつながれる。今はインターネットがあるわけやから情報もすぐ伝わるし、可能性はいっぱいあると思うな。
 昨年7月のサミットの時に、沖縄・名護で「ウマンチュ・満月祭り」というコンサートで歌ったんだけど、環境NGOのサミットやいろんな「対抗」勢力が合流した。米国の反基地闘争をしているある人と話をしたんやけど、その人は徴兵から逃げた。実力行使をしたのね。それで裁判で勝ってるんですよ。「逃げてるときはどうやって逃げてたんですか」って聞いたら、「それは助ける地下組織があるんだよ」って。平然と言うわけよ。「何でそこまでやったんですか?」って聞いたら、「私のコミュニティーは基地に汚染されている。誰もやらないから自分がやるしかない」。それ以上のこと言わないし、実際、そのコトバ通りの思想なのよ、彼は。「そんな奇麗事言われてもな」って日本だったらいうでしょ? でも、ほんとうに「正義」が彼の本音なんだね。彼は左翼でも何でもないよ。
 僕はまだ見ぬ人々と、もっともっと繋がっていきたい。音楽はその手段でもあり、目的でもあるんです。

  ※『むすぶ』の定期購読(年間\8,400)ロシナンテ社まで。
    tel/fax 075-721-0647 E-mail: musubu@mc.kcom.ne.jp


●「活字になったパギやん」目次へ●




『部落問題・人権事典』Encyclopedia of Buraku and Human Rights Issues 

      部落解放・人権研究所 編/解放出版社(20001年1月1日 発行)
      定価 \48,000(お金に余裕のある人は買いましょう。ない人は近所の図書館に買うように言いましょう)
      項目数2,436、執筆者712人の壮大なこの「人権百科事典」にパギやんが書いた項目を紹介します。

「在日韓国・朝鮮人の人権」

 本項目は同書7ページ(12,000字以上)にも及ぶ大項目で、構成は次の通り。
 [概況]
[歴史] 〈朝鮮蔑視と同化主義〉〈戦前〉〈戦後〉
 [戦後の法的地位]
 [差別の現状] 〈就職差別〉〈住宅入居差別〉
 [日本社会の課題]
 [形成とアイデンティティ] 〈在日の現在〉
 [民族教育]
[民族文化運動]*
  ※関連年表と図表各1点、写真2点、関連項目、参考文献リストが添付されている。
  ※上記○印の項目が趙担当分。
  ※下記の文中 * は同書に項目があることを示す。

[歴史]
《朝鮮蔑視と同化主義》
 豊臣秀吉による朝鮮侵略(1592・1597)の後,日本と朝鮮の外交関係はいち早く修復された。江戸時代を通じて,朝鮮は日本と国交を有する唯一の〈通信の国〉であり,鎖国政策下においても一貫して友好関係にあった。その後,明治維新を経て入欧脱亜路線のもとにアジアの盟主たる道を日本が進むにつれ,政治的には征韓論,思想的には福沢諭吉の〈脱亜論〉等に代表されるように〈朝鮮は古くから日本の属国であり,日本は優越している〉という認識が生まれた。〈日本優位・朝鮮劣位〉イデオロギーは,日本の資本主義的近代化を支えた思想・歴史観に由来する。
 1876年(明治9)には日本は武力で朝鮮に不平等条約である江華島条約(日朝修好条規)を締結させ,1905年の乙巳条約(第2次日韓協約)で朝鮮の外交権を奪い,10年の韓国併合を経て朝鮮を完全に植民地としたが,それは侵略ではなく両国の同意に基づく〈併合〉であると強弁した。
 しかし,19世紀末からの朝鮮における反日義兵闘争,1894年東学革命(甲午農民戦争),1919年(大正8)三・一独立運動を経た朝鮮民衆の反日・民族独立
運動によって日本の朝鮮支配は当初からスムーズには進まず,それまでの〈武断統治〉による植民地支配方針は〈文化統治〉ヘと変化し,一定の転換を迫られた。三・一独立運動の直後,天皇は詔勅で朝鮮民衆に対しても〈*一視同仁〉政策を施すことをうたい,長谷川朝鮮総督は〈同化政策〉の定式化を行なった。同化主義は,近代日本に同化しない朝鮮=後進・野蛮・劣等という朝鮮蔑視観(デマゴギー)に支えられた政策的総路路線であった。その上に成立した植民地政策が,朝鮮語の禁止、攻策としての創氏改名(1939〜45)等に代表される民族抹殺政策と呼ばれるゆえんである。
《戦前》
 1910年代,朝鮮では統治者である日本の軍隊や警察権力を背景に土地調査事業・林野調査事業を行ない,広大な土地・田畑・山林が日本の国有ないしは地主や資本家の所有となり,朝鮮から中国・ロシア・日本への労働力流出は社会構造的なものとなった。第1次世界大戦で莫大な利潤を得た日本独占資本は,朝鮮の安価な労働カをきわめて効率的に日本国内へ配置した。これが在日朝鮮人形成の根本理由である。
 在日朝鮮人の主な職業は土木・建設工事等の日雇人夫,工場の非熟練工,雑役夫,炭鉱夫等であり,常に日本人労働者の産業予備軍的位置にあって失業率が高かった。また,同一労働に対する40〜50%低位の差別賃金が常識化する一方,危険で困難な労働現場へ送られ〈タコ部屋〉的労務管理と虐待・虐殺の迫害を受けた。賃金不払・遅配への抗議,待遇改善要求を掲げた労働争議への報復として生命まで奪われた朝鮮人労働者は数知れない。
 23年の*関東大震災は朝鮮人虐殺事件のうち最大規模のものであった。内務官僚の画した〈アカと朝鮮人襲来〉のデマゴギーに巻き込まれた軍隊・警察,民間の〈自警団〉は,多くの社会主義者と6000余人の朝鮮人を殺した。
 戦前の在日朝鮮人にとって住居の確保は,民族差別と差別賃金・失業による生活圧迫のために困難をきわめた。東京・大阪・名古屋・京都・神戸などの大都市では河川沿いや工事現場跡に,また,北海道・九州などでは炭坑地域〈朝鮮人部落〉が形成され,同時に都市部落やスラム地区への流入・混住も始まった。このような生活状態,労働実態が社会問題とされ,20年代より在日朝鮮人に対する本格的な融和政策が地方レベルで展開された。それらは〈内鮮融和政策〉と呼ぱれ〈内〉は内地,〈鮮〉は侮蔑的な意味を込めた朝鮮という意味である。38年(昭和13),内務省の外郭団体として中央協和会が結成され〈皇国臣民化〉のための〈協和事業〉が国策として展開された。在日朝鮮人は協和会が主催する国語講習会,神社参拝,軍事訓練等に動員され,日本語と日本名の使用,和服着用,〈皇国臣民ノ誓詞〉唱和等,徹底した日本人化強制され,社会生活全般にわたって厳しい管理統制の下におかれた。こういった政策の背景には,1910年代末期より起こる在日朝鮮人自身の民族運動,労働運動,社会主義連動の存在があった。戦前,民族独立や人権擁護を訴える朝鮮人を,日本の国家と社会は〈非国民・不逞鮮人〉として徹底して排除・排撃したのである。
《戦後》
 45年8月15日,日本の敗戦によって,朝鮮は植民地支配から解放された。10月在日本朝鮮人連盟(朝連)が結成され,在日朝鮮人の生活権擁護,帰国準備体制の整備等の闘いを繰り広げた。また46年10月には在日本朝鮮居留民団(民団)が結成された(1948年に大韓民国居留民団と改称)。GHQは在日朝鮮人を在日台湾人とともに解放人民Liberated Peoplesであるとしながら,必要な場合には敵国人Enemy Nationalsとして処遇すると決定し,日本人,非日本人のいずれに判断するかは,政治的情勢によって左右され,法的地位はきわめてあいまいであった。戦後〈ヤミ市〉経済流通時に〈第三国人〉という差別語が生まれたのはこのためである。
 日本政府およびGHQは,朝連に対し徹底した敵視政策をとり,帰国の便宜をはからず,とくにその民族教育に対して弾圧を加え続けた。46年3月頃までに,公式・非2公式に130万人余りが朝鮮へ帰国したが,在留する在日萌鮮人には47年5月2日公布された外国人登録令(旧憲去下での最後の勅令207号)を適用した。一方,〈日本国籍を有している,日本に在留する以上は,法に従うべきだ〉等の論理で,敗戦直後より進められていた独自的な民族教育については認めず,多くの自主学校は閉鎖させられた。49年9月〈団体等規制令〉によって朝連は解散に追い込まれた。
 50年6月25日,朝鮮戟争が勃発。この戦争により,故国への帰還を希望していた在日韓国・朝鮮人は帰国への道を完全に閉ざされたことになった。戦争の終結は,南北朝鮮の分断を固定化すると同時に,在日韓国・朝鮮人には〈本国〉とく在日〉との分断をもたらし,さらに故国――分断国家間のイデオロギー対立がそのまま在日韓国・朝鮮人社会にも持ち込まれていった。59年から始まる朝鮮民主主義人民共和国への〈帰国事業〉(1984年までに9万3000人余りが帰国)や,65年に締結された日韓基本条約をめぐって,在日社会はさらに分断されていった。そのなかで〈戦後日本〉は,南北朝鮮の分断の受益者であっただけではなく,在日韓国・朝鮮人社会の分断を利用してその政策を恣意的に推し進めてきた。

[民族文化活動]
 戦前から戦後そして現在に至るまで在日韓国・朝鮮人の文化活動は,日本文化の主流(メインストリーム)に対してつねに傍流・下位(サブカルチャー)に位置づけられたきた。それゆえに,優れた学者,芸術家,大衆芸能人,スポーツ選手などが出自を隠して〈日本人〉として活躍している例が少なくない。戦後の〈国民的ヒーロー〉であった力道山が朝鮮人であったことは,そういった文化状況を如実に物語る例であろう。このような事情の背景には,同化政策の結果としてもたらされた民族的アイデンティティの喪失という状況があり,それは今に至っても解決されていない歴史的課題である。ゆえ,自覚的な文化運動は,個人・集団・階層,またプロ・アマという次元を越えて,その回復過程と新たな創的視点を射程に入れざるを得ない。
 一方,民族文化についての概念・内容・規定が時代とともに変化を余儀なくされるばかりか,伝統文化の形式一つをとってみても,北と南では大きな差異が存在する。北では〈社会主義リアリズム〉の名のもとに伝統文化の人為的改造がなされたし,南においては植民地時代から無批判的に継承された〈観光文化〉的変節が残存している。在日韓国・朝鮮人の文化活動にとってはこういった事情も大きな困難として立ち現れ,いきおい〈独自性〉が意識され求められる。つまり,日本国内での民族差別と闘うと同時に,自らの民族的自覚・覚醒を促す文化の創出とその具体的方途・表現方法がさまざまなかたちで模索されてきたのである。
 したがって日本国内における既存の学界,芸能界,文壇,演劇界などで活躍する個人や集団の営為のみを在日韓国・朝鮮人文化の具象ととらえることはできない。メジャーシーンにおける文化的営為の基底には無数の庶民・民衆が存在するのであって,その存在の在日性こそが顕在化し,正当に評価されるべきであろう。また,メジャーシーンに頼らず独自のネットワークを築きながらインディーズシーンで活躍する芸術人も数多く存在している。加えて,1982年(昭和57)〈ひとつになって育てよう,民族の文化を・こころを/生野民族文化祭〉を嚆矢として,各地域の独自性のなかで〈民族文化祭〉〈マダン〉(広場)等というかたちで繰り広げられている文化的営為,あるいは公教育・学校教育の教育実践と結びついたさまざまな文化活動が新たな民族性(エスニック・アィデンティティ)創出の場を提供し,同時にまた,共生と国際化を具現する豊かな可能性や展望を生み出している。今後,〈北か南か〉 〈祖国か在日か〉 〈民族統一か反差別か〉といった二項対立的パラダイムが過去のものとなり,より積極的でダイナミックな文化的実験が行なわれることが期待される。


●「活字になったパギやん」目次へ●




生活・社会・文化を創る『ACT(アクト)――市民の政治――』 第136・137号(2001.1.1 発行)

  新春特別インタビュー/なにわの唄う巨人 趙 博さん(河合塾講師/ミュージシャン)

      柔道も・音楽も・学問も…
      納得のできるCD一盤と
      在日の歴史書きあげる

________________________________________

チョウ・バク:1956年大阪市西成区生まれの在日二世。神戸外大ロシア語学科卒。関西大学教育学科修士課程修了。国籍条項撤廃により、大阪府教員採用受けるも、面接官の前で喫煙し不合格。関西大学非常動講師、社会主義理論政策センターのバイトなどを経て、86年から河合塾英語講師。同時に結婚。一女の親。92年、ロックパントGarnet Rage結成。94年から毎年セレプレーションコンサートをプロデュース。現在ソロ歌手として年間80回近いコンサート、ライプをこなしている。 ――以下略――  (写真と文 小寺山康雄)
________________________________________


□■趙君と初めて出会ったのは、70年代末、当時住んでた尼崎の拙宅に、それこそヌッと入ってきたときですね(笑)。

     そうです。三左子さん(小寺山のつれあい)がぽくの母校、西成の鶴見橋中学校の在日朝鮮人生徒主任をされていて、教育実習生として行ったぼくに、遊びに来るようお誘い受けたんです。


□■当時は、まだ百キロ超えてなかったと思うけど(笑)。六尺有余の大男がいきなりやって来て、家中のビール、日本酒、ウィスキーを飲み干し、2キロの焼き肉を見事に平らげた(笑)。ぽくは君の豪快な飲みっぷり食いっぷりの「日本人離れ」したところに惚れたんや(笑)。
 それがら20年の付き合いになりますが、今日初めて聞くけど、朝鮮人を意識した、あるいはさせられたんはいつ頃なの?

     忘れもしない小1のときです。当時「家庭環境調査票」というのがあって(部落解放同盟の糾弾でのちに廃止)、教師に提出する前にこっそり読んだんです。そこに「本籍朝鮮」とあり、「西山博」が「趙博」とある。一瞬、眼前真っ暗になりましたよ。同時に、これは絶対に人に知られたらあかん、隠し通さんとあかんと思いました。実際、大学三年生まで隠し通してきました。


□■趙くんのことやから、「調査票」は教師に提出しないで燃やしてしもうたんとちゃうの?

     そうしてたらカッコええげど、まだ小1でっせ。話ができすぎでんがな(笑)。
     小3のときの女教師が最低のセンコで、今でも許せん。何かあったらぼくを立たせたり、「調査票」をクラス全員に閲覧させるんですわ。情報公開やいうてもプライバシー侵害は違法でっせ(笑)。
     だから教師にだげはなるまいと思っていたので、採用試騒ではねられて初志貫徹ですわ(笑)。


□■予備校の教師は教師と違うんか?(笑)

     予傭校の教師はセンコより上ですわ(笑)。まあ、人生は夕テマエどおりにはいきまへんな(笑)。
     そんなわけで、みんなに朝鮮人がばれてしまったんですが、ガキの頃から喧嘩は強かったので(笑)、誰も面と向かってチョーセンとはいわなかった。
     高校のとき、親父が「一家で帰化する」と言ったときは嬉しかった。それで父と母が法務局に帰化申請に行ったんですが、おかんが「あかん、帰化でけへんわ。この人、前科もんやから書類出すだけ無駄や言われた」と、帰ってきて言うんですわ(笑)。
     そのときは、「こんな親と一緒にいると、俺の未来はない。はよ一人立ちしよう」と思いましたが、今ではよくも前科もんでいてくれた(笑)、帰化せずに良かったと感謝しています(笑)。


□■帰化してたら、趙くんとの出会いはなかったかもしれんな。それで大学三年でカミングアウトしたのは、何がきっかけになったの?

     ぼくは中学のときから柔道やってて、当時数少ない二段までいった。コテコテの体育会系ですわ。加えて上昇志向が人一倍強かった。勉強もでけたんでっせ(笑)。中三のとき朝鮮高校から進路指導の先生が来て、北朝鮮の映画をみせながら「朝鮮人の生徒は朝鮮学校で学ぶべきです」と、切々と訴えた。
     ぼくはどない言うたと思います?「アカは帰れ、このどアホ」と怒鳴ったんですわ(笑)。


□■憎たらしい悪ガキやな(笑)。

     その反共主義者のぼくが大学で学生運動家になったんです。きっかけは学費値上げ問題。貧乏人のぼくにとって学費値上げは死活間題です。崩壊していた自治会を仲間と一緒に、規約に基づいて民主的、大衆的に再建しました。これは今でもぼくの誇りです。


□■えらい単純素朴な動機で左翼になったんやな(笑)。もっとも趙くんらしいけど。

     左翼になったというても、へルメット被っていかにも左翼でございとおさまっている奴を見ると、誰彼かまわずどついていた(笑)。
     本名名乗るきっかけは、警察にパクられたとき、警察がぼくのことを全部知っていことに衝撃を受けたからです。「革命的警戒心」と称して(笑)、朝鮮人であるこを隠していたつもりだったぼくの甘さと馬鹿さかげんを思い知らされた。
     それからは当時刊行されたばかりの『季刊 三千里』の熱心な読者になり、金達寿、姜在彦、金時鐘、朴慶値、金石範、梶村秀樹さんらの書いたものをむさぼるように読み始めた。そして学生課に行って本名に戻す手続きをして、その足でゼミ担当教官の小松勝助先生に「明日から本名でいきます」と告げた。
     活動にかまげてゼミなど一回も出席していなかったのに、先生は「おめでとう。いつ君がそう言ってくれるか待って
    いたんだ」と言ってくれた。そしてウォッカをすすめながら、外大に在籍した多くはいない朝鮮人学生との付き合いを淡々と語ってくれた。ぼくは感極まって、泣いた。後にも先にも嬉し泣きしたのは、あのときだけです。


□■ええ話やな。ええ先生にめぐり会えて君は幸せや。後にも先にももらい泣きするのはこれが初めてや(笑)。
  で、それから朝鮮人として生きてきたわけですが、趙くんは自分自身を何者であるか、何者でありたいと考えているのですか。

     10年以上前になりますが、北海道に行ってアイヌと出会ったことが大きかったと思う。それまでは「祖国か在日か」とか、「在日を生きるとは何か」とか、観念的にせよいろいろ考え、自分自身は何かということについて思いあぐねていた。それがアイヌと出会って、マイノリティとして生きることのすばらしさに思い至ったんです。
     よく「同化させられる」といいますが、そんな言い方は嘘であって、マイノリティはマジョリティからは絶対的に排除されている。おもねたり媚ぴている限りはいいか、少しでも抗いマイノリティのアイデンティティを主張するや、この国では徹底的に排除される。
     日本に住むマイノリティとしてのぼくらは、もちろん日本人ではないけれども、どこかに祖国を持っている海外公民でもない。いうてみたら非日本人です。日本人にはわかりにくいかもしれませんが、ぼくが行ったところでいえば、カナダでもサハリンでも非アングロサクソン、非ロシア人が堂々と胸張って生きています。


□■話はようやく音楽に移りますが(笑)、演歌以外の音楽は苦手なぽくなので、話を遅らせてきたんです(笑)。趙くんは音楽を通して何を発信してるんですか。

     それはコンサートやライブに来てくれるか、CDを買ってくれたら分かってもらえる(笑)。
     90年に韓国から民主化運動にコミットしていた3人の歌手を招いてコンサートをしたのが始まりです。もともと柔道以外に軽音楽もやっていたのですが、このときからプロとしてやりたいと思いだしました。このコンサートは、それはそれで成功したのですが、感じたことは政治的プロパガンダとして音楽をやるのはいかんな、ということでした。韓国もんをやるとうけるのですが、それがいやなんです。


□■なんでや。韓国の演歌はぼくは大好きやし(笑)、韓国人の趙くんが韓国もんやるのは自然なことやんか。

     ぼくはぼくの音楽を聴いてもらいたい。「よいとまけの唄」をパンソリ調にアレンジしたのは自信作です。


□■うん、あの歌はもともと美輪明宏の持ち歌ですが、趙くんが歌うと、まったく別の歌になってる。阪神・淡路大震災で精力的に仮設住宅、避難所めぐりをしたときは、「よいとまけの唄」はじめ大受けだったんですよね。

     ぼくのファンは同世代か、ちよっと年上の女性が多い。人生が分かってきた人に分かってもらえるんです(笑)。


□■趙くんはこれがら一ふんばりもニふんぱりもできる年齢です。今後の仕事としてどんなことを考えていますか?

     1つは納得できるCDを出したいですね。まだ、納得できるCDを出していないと考えていますから。もう一つは在日朝鮮人の歴史を書きあげたい。資料は集めています。ちょっと聞き書きしたものに学問的粉飾をこらした程度の薄っぺらなものではなく、きちんと学問といえる本を書き上げたいのです。


□■そのためには向こう見ずの喧嘩は控えて、身体をいたわりながら励んでください(笑)。

       ※『ACT』は毎月第2、第4月曜日発行。一部400円、年間購読料 \6,000(送料込み)
        お問い合わせ・申し込み⇒act@jca.apc.org


1999年を読む ● 2000年を読む ● 2002年を読む ● 2003年を読む ● 2004年を読む
● 2005年を読む ● 2006年を読む ● 2007年を読む