ステージ5●2003年

新聞、雑誌などに掲載された趙博のエッセイ、インタビュー、紹介記事等の自選コレクション
読めばあなたも“パギやん通”に!



No.10●2003年下半期


『毎日新聞』 長崎版

趙博さんのライブ、諌早の主婦が計画 ――来年2月、人権や差別テーマに 
 ◇骨太の歌、聞かせます
  大手予備校講師でミュージシャンの趙博(ちょうばく)さん(47)=大阪市在住=が来年2月14日午後7時半から、諌早市東小路町の洋風居酒屋「アクア」でライブを開く。企画したのは同市栄田名、主婦、野崎優子さん(46)。インターネットを通じて趙さんと知り合い、人権や差別の問題などメッセージ性の強い骨太の歌を
知ってもらおうと、独力でライブ開催にこぎつけた。【横田信行】
  趙さんは大阪市西成区生まれの在日朝鮮人2世で、幼くして右目を失明した。英語、ロシア語、韓国語が堪能で河合塾に英語講師として勤務。その傍ら多彩な音楽活動を展開し、フォーク、ブルース、ロックから朝鮮古典民謡、浪曲までこなす。多数の著作もあり、人権、教育などをテーマに講演もしている。
  年100回を超す全国各地でのコンサートや「ギター漫談」、歌と語りを交えた独特の公演「歌うキネマ」などで高い評価を受けている。
  定型化された見方や評価を嫌い「在日関西人」と自称する反骨の自由人。182センチ、102キロの巨体に丸いサングラスといかつい風ぼうから「浪花の唄う巨人」として熱烈なファンを持つ。
  人権問題などで活動をしてきた野崎さんは、趙さんの著書「ぼくは在日関西人」を読んで共感。趙さんと同じメーリングリストに入っていたことから、昨年8月に大阪で趙さんに長崎でのライブを直談判した。
  「趙さんが訴える不条理なものへの不服従、抑圧された人たちの怒りや悲しみは、不安な今の時代、共感を覚える人が多いのではないか。『負けてたまるか』と立ち上がるエネルギーをくれるはずです」と野崎さん。
  趙さんの県内ライブは96年の佐世保に続き2度目。女と戦争をテーマにシャンソン歌手・美輪明宏さんの日雇い労働者の歌を朝鮮民謡のリズムに乗せてアレンジした「ヨイトマケの唄」や、趙さん自身のテーマ曲というオリジナル「橋」など十数曲を披露する予定。
  趙さんは「皆さんが普段聴いている“消費する音楽”とは違うかも。耳障りかもしれないが、心にひっかかり、感じ合える音楽なのでぜひ楽しんでほしい」と話している。
  前売りは大人2000円、中高生1000円。野崎さん電話0957・25・3993。
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2003年12月13日『愛媛新聞』

特集「在日」 第6部  語る
(1)趙博 ミュージシャン 「民族」ってなんやねん
  日本は大きな曲がり角に差し掛かっている。この社会に内在する在日コリアン問題を通じて何が見えてくるのか。少数者の視点、差別の構造、今後の在日問題は…。各界で活躍する五人が日本社会を俯瞰(ふかん)し、語る。
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  「反戦」「人権」を声高に叫びはしない。「差別されたら逃げよう」とサラリと言う。自然体を貫く「浪速の唄(うた)う巨人」。歌のジャンルは幅広い。朝鮮の古典民謡もやれば、ギター片手にフォークソングやブルース、浪曲もうなる。
  阪神淡路大震災のボランティア活動で巡り合った芸人、故マルセ太郎に魅せられた。マルセの至芸「スクリーンのない映画館」に刺激され、一本の映画を一人で歌い語る「歌うキネマ」の公演も昨年三月から始めた。趙博の歌声は心に染みる。魂がある。
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  「在日」「朝鮮」からずっと逃げていた。大学三回生で本名を名乗ってから、その反動で揺れた。朝鮮語を一生懸命勉強し、毎日キムチを食べた。反日的にもなった。あのままだったら今ごろ、民族組織の幹部になっていたかもしれない。
  転機は二十九歳。アイヌの人たちとの出会い。大学の非常勤講師だった私は調査、研究でアイヌ民族を訪ねた。彼らにとって学者は敵だった。何とか打ち解けてもらおうと「私、朝鮮人なんです」と告白した。すると返ってきたのは「それがどうした」。
  どうしようもない恥ずかしさ。自分に腹が立った。「在日朝鮮人」という自分の立場を絶対化していたと気付いた。アイヌや沖縄など、他の少数者の存在が見えなくなっていた。
  アイヌ民族は先住民として堂々と先住権を主張している。触れ合って目の前が開けた。「そうだ、少数者でいいんだ」。相対化して見ると、日本社会の不当さだけでなく、在日社会の危うさも見えてくる。日本人に指摘されると「やかましい」と言うけどね。
  「民族」を声高に言う在日ほど民族を知らない。民族舞踊だと称して、きれいな服を着て踊っている。それは宮廷舞踊。「大衆文化は下層の者がやること」と見下す。そんな人間が言う「民族」ってなんやねん。在日組織が主張する民族主義の嫌らしさ、薄っぺらさはそこにある。そして、民族主義と国家主義の区別もつかなくなってしまった。
  パンソリ(古典民謡)に仮面劇。私は庶民の文化を追い求める。
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  マルセ太郎は「記憶は弱者にあり」と言った。その裏返しで強者(日本人)が記憶を無くし、自分を見失っている。「多数者の皆さん、しっかりしてよ」と言いたくなる。
  「私は日本人だ」と胸を張っても中身がない。裏側に何か違う響きがある気がする。「在日よりはましだ」という優位性。そうしなければ、日本人のアイデンティティーが確立できなくなっている。それに気付かないのはもっと悲しい。
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  一昨年の「9・11」テロ直後、米大統領が「すべての人、国は決断しなければならない。テロとともにあるか、われわれとともにあるか」と演説した。ご飯を食べながら聞いて「どっちも嫌じゃ」と叫んだ。変な時代になっている。
  戦争はどんなに理由付けても強者の論理、男文化。弱者は虐げられる。対極の女は戦争になったらどうなるかと考えた。そして最近「歌物語・女の一生」を歌い始めた。美輪明宏の「祖国と女達」、美空ひばりの「一本の鉛筆」…。「戦争反対」と叫ぶのもいいけど、私は歌で表現したい。
  (高倉健主演、降旗康男監督の特攻隊を題材にした映画「ホタル」。それを「歌うキネマ」で演じた後、趙は高倉健が演じる主人公になりきって、映画にはないせりふを付け加えた)
  過去の戦争が美化されるとき、もうすぐ次の戦争が始まろうとしている。戦が美しいわけではない。美しいものがあるとすれば、それは人間の魂なんです。

【ちょう・ばく】 1956年、大阪市生まれの在日2世。予備校英語講師、歌手、芸人の顔を持ち、年間約100回のライブをこなす。著書「ぼくは在日関西人」 (聞き手=編集委員・奥村健)

※精力的に「在日」の取材は続いています。こちらで全文が読めます。敬意を表して、ご紹介! (Paggie)



『出版ニュース』 2003年12月中旬号

【貝原浩のベストセラー戯評】
 



『インパクション』 No.137 (2003.8.30) 特集「北朝鮮」異論

【私の「金日成主義」体験】     by  趙 博
  1970年に崩壊した神戸外大学生自治会は、旧規約に基づく学生大会の成立を経て、77年夏に正式に再建された。当時、全学代議員会議長であった私は、そして「在日朝鮮人」という社会的歴史的立場を明らかにできず、「革命的警戒心」なる大義名分に隠れて日本名で自治会活動と学生運動に没頭していた私は、己の民族的立場に悩み、その自覚を模索していた。
  78年、自ら進んで「在日朝鮮留学生同盟」の門を叩いたのだが、朝鮮総連や朝鮮労働党がいかにマルクス・レーニン主義の原則から逸脱しているかは諸文献を通じて理解していたし、主体思想(チュチェ・ササン)なるペテンと金日成主義という「左翼小児病」の権化には警戒してもしすぎることはない──と自分に言い間かせた上での加盟であった。若く傲慢な私は、今度は「共産主義者」という自分の思想的立場を明らかにしないで、留学同の盟員となった。大学内で「朝鮮文化研究会」を作って、さっそく同胞学生の結集を図った。神戸大、関学、神戸学院大など、留学同拠点大学の同努(トンム)たちの友情と支援に支えられて、私は朝鮮語や歴史、南北分断の現実や日本での民族差別の実態など、懸命に学習した。見る物聞く物、すべてが新鮮で感動的だった。なによりも「朝鮮人」であることを誇る先輩トンムの堂々とした姿や、女性トンム達の屈託のない笑顔と会話、溌刺とした文化活動、朝鮮大学校での熱気溢れる全国合宿等、私は「民族」に触れ、蒙を啓かれた。自分が否定的にしか捉えてなかった「朝鮮」が目の前で光り輝き、祖父母や父母の「生」の根幹に触れる思いを何度しただろうか。日本社会の同化と排に素晴らしい文化と組織を守り発展させてきたのだ!──幾度となく感涙に咽ぴ、そのたぴに、朝鮮から迷げていた己の浅はかさを思い知らされた。
  我が青春の「留学同」は、しかし、「偉大な首領様」を賛美し、「祖同統一」の悲願達成のための「民主基地」と社会主義を守り、朝鮮革命の闘士を育てる役割も担っていた。私たちは、己の民族的主体性の確立が革命の主体になる、マルクス主義唯物論は革命における人間の役割を明らかにできなかった、主体思想は人類史最高の哲学であり民衆解放の思想である、と教えられた。一にも二にも「主体性」の確立だ、真理の基準は実践にある……デューイやジェームスも驚く「プラグマティズム」、はたまた、池田大作ですら恐れおののいたであろう「人間革命」が私の眼前で語られ、段々と心酔していくトンム達の姿があった。
  「理論学習」だけではない、「批判事業(ピパン・サオプ)」も頻繁に行われた。「○○は同志愛に欠ける」「XXは資本主義的発想が抜け切れてない」「△△は忠誠心が足らない」皆の前で批判されたトンムは、その批判を謙虚に受け止め、反論することなく沈思黙考して自己総括の糧とするのだ。私に対する、ある「批判」を今も鮮明に覚えている。「トンムはよく勉強しているが、埋論と実践がかみ合ってない。つまり思想となってない。ジーパンをはいて朝鮮革命ができると思っているのか!」
  革命ごっこが個人の意識やサークルの部室だけでの話なら、まだ無邪気なものだっただろう。私は「韓国からの留学生を一本釣りしろ」という「指令」を、ある専従活動家から受けた。「この事業(サオプ)は、他言してはならない」と、釘も刺された。私の予想通りであったが、馬鹿馬鹿しいことこの上なかったのは、私の友人も同じ日に「指令」を受けていて、「しまった、これは言ってはいけなかったんだ…」と私の前で口ごもったことである。金日成主義者どもが、何をしようとしていたか、推して知れた。その後、大学院に進学が決まった私に、「科学者協会」の専従が接触してきて、「自分は統一革命党員だ。韓国の民主化闘争にトンムは直接参加すべきだ」ときた。この男、漢字はわからないが「キム・ウォンジョ」と私に名乗った(風評によると90年代に死亡したそうだ)。「それは革命の輪出だ、もっとはっきり言ったらスパイを送り込むということじやないか」と私が反論すると、キムは「ゆっくり論争しよう」と笑顔で応え、その後も何回か接触してきた。その間も「関西大学大学院に二人の韓国人留学生がいる。友達になっておいてくれ」と私に言うことを彼は忘れなかったのだが……。
  彼は、ほんとうに誠実だった。誠実に「革命」のための任務を遂行しようとしていたのだと思う。キムの名誉のために、そのことだけは付言しておきたい。しかし、三ヶ月ほど経った頃、私の様々な「反論」をあしらいかねたのか、キムは「平壌から正式にトンムに招聘があった。革命の聖地で、しっかり勉強してはどうか」と切り出した。「あんたらは、そうやって何人の人問の人生を狂わせたのだ、ふざけるな、お前が行けよ!」と私が語気を荒げると、周囲の人目も憚らずキムは朝鮮語で「この道17年、私には誇りがあるのだ!若造が一人前の口をきくな」と怒鳴った。
  「ああ、このおっさん、工作員失格やなあ」……私は哀れに思うしかなかったのだ。韓国籍者と帰化者への同等のオルグは、かなりなされていたようだ。この文章を書きつつも、「市民生活」から消えていった数名のトンムの顔が思い浮かんで、憤懣のやり場がない。
  北朝鮮バッシングは、今に始まったことではない。しかし、今回の拉致騒動以降の百家争鳴のなかで私が齟齬を感じるのは、「朝鮮草命」を標榜した金日成主義への思想的批判が一切ないことである。キミタチ朝鮮の共産主義者は、いったい何をしているのだ? 日本のマスコミや、「日本人の拉致被害」という絶対正義を入手した好戦勢力が金正日打倒を言うのは、当然じやないか。「反北朝鮮勢力」や「民族差別主義者」が増加したのか?違うだろう。今まで隠れていた奴ら(キミタチの好きな反革命分子や修正主義者だよ)が大手を振っているだけじやないか。間題はそんな奴らが「反共和国」を振りかざしていることではないのだ。事実は単純だ。「主体」の側からの総括、つまり責任ある批判のなさにつけ込まれているだけなのだ。
  革命の主体ではない私は、頭を低くして敵の弾に当たらないように警戒しつつ、断固生き抜くだけである。殺されてたまるか!!

★この特集号は、実に読み応えがあります。私の駄文はさておき、太田昌国さん、金 時鐘さん、水野直樹さん 他、の「理性と知性」をお読みください。
★バックナンバー&定期購読:インパクト出版会 



『ACT─市民の政治』No.203 (2003.9.22)

「ACTの本棚」より
 今年になって解放出版社から在日朝鮮人の本が相次いで出版された。辛淑玉『鬼哭啾啾』、趙博『ぼくは在日関西人』がそれである。
 15年続いたぼくのコラム「うの眼たかの眼」を思想の違いによって執筆停止した『解放新聞』と同系列の出版社の本だから、紹介するのはけったくそ悪いのである。つきあいのない辛淑玉はまだしも、親父の葬式にも出かけた趙博が裏切るとは「お前、それでもなにわの男か!」と、なじりたいところだが、タイガースの18年ぶりの優勝に免じて許してやることにする。
 趙博は1956年生まれ、辛淑玉は59年生まれ、同世代の在日二世、三世である。二人とも身体がでかくて喧嘩が強い。辛淑玉は女だてらにガキ大将だったし、趙博は何かというと「半殺しにするぞ!」が口癖の野蛮な男である。
 と書くと、この二人は何の屈託もなく生きてきたように思えるかもしれないが、日本人はむろん、並の在日朝鮮人の苦難と挫折をはるかに凌ぐ人生を歩んできた。辛淑玉など差別から逃れ、差別と闘うために中途編入した朝鮮学校で教師から「半日本人[パンチョッパリ]」として差別され、毎日のように心身ともに暴力を振るわれたのであった。
 身体のでかい二人が精神もでかいのは、被差別の体験を絶対化し、「この痛みはあんたらには絶対分からない」と、他者との対話交流を拒み、あるいはそうした絶対化の前に無条件でひれ伏す七〇年代初めから今日まで続いている反差別の「文化」を内在的に批判していることである。
 趙博はそれを「入れ墨主義」と命名しているが、彼は同時に互いの<恨>にふれあうことなく、通り一遍の「人権間題」に流し込んで事足れりとする「優等生的道徳と正義」も指弾する。
 ある会合で親しい在日一世が「拉致間題」にふれて、「私らの時代と違って、最近の若い同胞の中から国家や民族をこえた地平から我々のアイデンティティを摸素する試みが社会科学や小説にあらわれ始めた」と顔をほころばせながら語った。
 二人の本は、こうした一世の期待に応える国境をこえる旅の始まりを告げるものである。この旅の同伴者になるかどうか、それはこの本の読者であるあなたがきめることである。 (小寺山康雄)

※ みなさん、《ACT》を定期購読しましょう。



藤井康広「空飛ぶ町医者」No.146 (2003.9.13 朝日新聞福井版より)

よみがえる映画再現芸/「歌うキネマ」マルセファン絶賛

 私の診察室には大きな額に入ったマルセ太郎さんの写真が飾られている。鋭い眼光だが弱者に優しい人だった。彼の優しさを見習うため、そして邪心が生まれないように、彼ににらみを利かせてもらっている。
 マルセさんが亡くなって2年。肝臓ガンに侵されながらも、演じ続け、福井市のほか、三国でも2回演じてもらったから、本県でもなじみ深かった。映画を丸ごと一本語り尽くし、映画以上の感動を与えた芸を懐かしむ声が多く聞かれていたところ、マルセさんの芸を引き継ぎ、ある男が演じだした。マルセ太郎を心酔し、カバン持ちまで務めた趙博、その人である。
 生まれも育ちも浪花、その巨体から発する大阪弁はドスが利いていた。2年前にマルセさんの追悼会を三国の「ラーバンの森」で行ったときには、プクという韓国の太鼓や、ハーモニカ、ギターと色々な楽器を演奏しながら唄を歌ってくれた。マルセさんも彼も在日韓国人。在日だからこそ唄い語れる魂があるのかもしれない。
 趙さんは元々は歌手だが、別の顔を持つ。大学と予備校の英語の講師、そして役者でもある。だから日本語、英語、韓国語の3カ国語を流暢に使い分ける。マルセさんはパントマイムと語りというスタイルだったが、彼は歌い語るスタイルなので「歌うキネマ」。演目は「マルコムX」「風の丘を超えて」「ホタル」などで、マルセファンの間でも注目され各地で絶賛されている。それで三国で彼に演じてもらおうと思い立った。
 今回は「ホタル」。映画は高倉健が主演した。特攻隊の生き残りを演じる初老の男。その妻は不治の病に。妻には昔、結婚を約束した人がいた。「その人」は特攻で死んだ。悲嘆にくれる田中祐子をやさしく慰めるのは「その人」の親友であり、生き残りの男だった。慰めの感情が徐々に愛情に変わり、二人は結ばれ、年を経る。妻が死を目前にしたとき2人は「その人」の生まれ故郷に、最後の言葉を遺族に伝える旅に出る。「その人」の故郷は韓国。韓国人が太平洋戦争で日本軍として特攻隊の兵士となった事実に基づいた映画である。
 韓国を二人が訪ねる場面がこの映画の見せ場。舞台は河回(ハフェ)という村。村を河がなだらかに取り囲むように流れる美しい風景。韓国語も日本語も堪能な趙さんだからこそ演じられる迫真の場面で、ほとんどの人が胸が熱くなり涙してしまうという大人のためのラヴストーリー。それ以上は「歌うキネマ」を体験してからのお楽しみとしておこう。

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9月27日午後7時から。場所は「ラーバンの森」(0776-82-1826)。森と言ってもログハウス。主人は農業の山崎さん夫婦。木戸銭は2500円。限定40名。お申し込みはラーバンの森か「東尋坊・ひまわりの丘」(0776-82-8500)まで。

藤井康広「双和会、聖仁会」ホームページ 
※朝日新聞・福井版に、藤井さんのコラム「空飛ぶ町医者」が連載されています。



『週刊 金曜日』No.474 (2003.9.5)

《きんようぶんか・音楽『彼処此処』》 「モー娘。」の対極/ぼくは自由に歌う!

 「ぼくは『在日朝鮮人』として大阪の『被差別部落』に生まれ育ち、隻眼という『障害』がある」
 趙博は、発売になったばかりの半生記『ぼくは在日関西人』(解放出版)で、こう自分を紹介している。
 隻眼とは、片方の目が見えないということだが、この言葉には別に独自の主張、優れた見識、という意味もある。趙博は、その両方の意味での「隻眼シンガー」だと私は思う。
 彼はフォーク・ギターを抱えながら全国各地を飛び回っている。八月末に私が高野山へ呼ばれた時も、彼は同じ場所でライブを依頼されていた。高野山が終われば、北海道、沖縄。彼は河合塾の先生でもあるから、よくもまあ働くものである。
 そんな趙博のステージやCDを聴いていて気づかされることがある。彼は自作の歌と共にカバー曲も数多く取り上げているが、扱うジャンルがとても広いのである。浪曲をうなり、労働歌や演歌を取り上げる。太鼓を膝の上に置き「アリラン」をうたう。沖縄音楽も、ジャズの名曲も、演説(マルコムX)もある。最新作となる二枚組『彼処此処』では、フリー・ジャズの板橋文夫トリオをバックに招く多彩ぶりだ。
 そしてこれらのほとんどが、現在の大手放送局やメジャーのレコード会社の視点からすれば「陽の当てられることの少ない歌」ばかりなのである。『彼処此処』には、美空ひばりの隠れた名曲として(一部では)話題になった反戦歌「一本の鉛筆」が入っている。同じく「艦砲ぬ喰ぇぬくさ」は、沖縄戦の残酷を痛切に訴えた作品として(一部では)知られている歌だである。
 このような人間のナマの声が反映されている歌、あるいは民衆の歴史からわき上がった感情を、ストレートにうたおうとしているのが趙博である。その姿は、テレビでいつも見かけるヒット・シンガーたちとは、見た目はもちろんのこと肌ざわりまでもが異なる。武骨で荒々しく、汗の匂いのする舞台だ。
 たとえば、趙のレパートリーの一つである「石狩挽歌」(七十年代半ば、演歌の終焉期に花咲いた名曲)にしても、日本の過疎問題と緊密につながるこの歌を、ナツメロではなく現在の歌として取り上げることのできるシンガーは、そうはいない。つまり、「モーニング娘。」の対極にいるのが趙博なのである。
 「モー娘。」を悪だと決めつけたいのではない。少女たちの笑顔と共にあるお遊戯歌の「明るさ」や「可愛らしさ」を、黒いサングラスの巨漢・趙博に求めることは、無理。「モー娘。」も、立派な音楽である。
 だが両者は成り立ちが違う。「モー娘。」は、厳然とした企業音楽、産業音楽であり、趙博はそこに意図的に関わろうとしない「個人音楽」「零細ミュージック」なのである。両者はどちらも、今の、日本の姿を映し出す音楽である。
 趙は、自著『ぼくは在日関西人』で、次のように書いている。
 「自分が『これを歌いたい』とか、『これを伝えたい』というのが通らない社会、やりたいことができない社会なんですよ、芸能界というのはね。自らすすんで商品にならないかぎり、芸能界では生きていけないわけです。(略)そうやって考えたとき、ぼくはこのままでええし、スタンスは間違ってないと思います」
 趙博は、このような立場を、自分の強みであるとも言っている。自分は自由にうたう道を選んだとも語っている。
 すでに彼は、天皇家〜「君が代」にぶつけたジョーク、禁歌を収めた名作『ガーリックちんどん』(2000年)を生んでいる。言いたいこと、言わなくてはならないことを語りうたう。その権利と責任。 
 人呼んで「浪速の巨人」の堂々たる歌声は、今日も、日本のどこかで聞えている。
(評者:藤田 正




No.9●2003年上半期



『大阪日日新聞』 2003. 6. 27 (金)

【夢追い人】 マルセ氏の芸 自分なりに― ミュージシャン、予備校講師 趙 博さん

 予備校講師を務める浪速のミュージシャン趙博(ちょう・ばく)さん(四六)は一本の映画を一人で語り切るマルセ太郎さんの至芸「スクリーンのない映画館」を「歌うキネ」としで引き継ぐ。
 マルセさんとの出会いは1997年。阪神大震災で被災した障害者作業所の再建活動で知り合い、2001年に亡くなるまでの晩年、間近でマルセさんの芸に接してきた。
 「影響を受け、学んだこともいっぱいあったけれど、受け継いでいくなんでおこがましい話」と思っでいだが、映画館で『ホタル』(01年、東映)を見た時、「マルセさんなら(演目として取り上げて)やるかなあ。あの芸を見られなくなるのはつらい」という思いがめぐり、自分なりの方法でステージに立つようになった。
 「ちきしようと思いながら感動して泣いた」という『ホタル』は、高倉健のせりふにほれ込んだ。「この映画に出てくる人は、戦争反対と訴えるのではなく、戦争に耐えてきた人たち。自分なりに解釈したものを伝えていきたいと思った」
 元待攻隊員役の高倉健やその妻役の田中裕子、食堂の女将(おかみ)役の奈良岡朋子らを一人で演じ、語っていく。上官だった金山少尉の実家の韓国を訪れ、遺言を伝えて遺品を手渡そうとする場面では、映画と同じくアリラン(朝鮮の民謡)を歌い、ほか節自に二曲、最初と最後にテーマ音楽を挿入して、ミュージシャンとしてのオリジナリティーを持たせる。
 『ホタル』のほかに、『マルコムX』や握美清主演のテレビドラマ『泣いてたまるか』、韓国映画『風の丘を越えで:西便制』もレパートリーとする。感動じた作品であり、ほれ込めるせりふがあるかが作品選びのポイントになるという。
 「スクリーンのない映画館」の後継者との声が強いが、「彼の芸を受け継ぐことはできない。その使命感もない」と謙そんする。生前、趙さんのライプを見たマルセさんは「歌える芸人になりなさい」と言ったという。それは「歌うキネマ」に趙さんを導いた言葉だったのか。
 音楽、舞台活動のほか、なりわいとする予備校講師は「大学の体制を変えるため」に始めた。しかし、現状は「生徒は何をやっているのか分かっていないし、単に送り込まれているだけ。絶望的」と悲観する。「予備校に行くのが恥ずかしかった時代の生徒はギラギラしていたのに…」
 在日韓国人二世として大阪市西成区に生まれ、現在は生野区に住む。故郷としで愛する大阪の文化的レベルの低さには、怒りを隠さない。「大阪というブランドで全国に売り出すのではなく、もっと独立心を待たないとだめ。今の大阪には何の特徴もない。文化は死んでいる」
 だからこそ、「浪花の文化はおれが担っている」と豪語し、ライブ活動やアルバム制作、「歌うキネこのほか、教育機関や学術シンポジウムなどで「教育」「人権」「文化」などをテーマにした講演活動などにも躍起だ。
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○…182?の長身、百?を超える巨体、威圧的な口調。圧倒されるが、偽善はなく、一本気で、どの言葉にも誠意がこもる。「関西独立」、ひいては「日本革命」もぶち上げ、日本の文化危機を声高に訴える。見て見ぬふり、気付かないふりが得意な日本人の中で、現実に甘んじることなく立ち向かう"浪花の唄う巨人"の猛威が頼もしい。




東京コメディ倶楽部 『笑息筋』第181号('03.6.30)より

6月22日 門前仲町・門仲天井ホール


 マルセ太郎が編み出した「映画再現芸」が、シンガー・ソングライターの趙博(ちょうばく)によって受け継がれ、評判になっていることは知っていた。だが、正直なところ、見るのが怖かった。どうしてもマルセ太郎の芸との比較になってしまう、と思ったからだ。
 しかし、今回、「歌うキネマ」東京初ライブにでかけ、なによりも、マルセ太郎との比較など無意味であることに気づいた。一本の映画を頭から終わりまで語る芸、という骨子こそ同一だが、目の前でおこなわれたものは、それとは別の更なる独自性を備えていた。 映画『ホタル』(2001年・東映・降旗康男監督)は、特攻隊で生き残った、今はもう老人となった男(高倉健)が、病気の妻(田中裕子)とともに、戦死した朝鮮人特攻隊員の遣族を、韓国に訪ねる話である。妻は、男と結婚する以前、この朝鮮人兵士の婚約者であった。
 朝鮮人兵士の最後の言葉を伝えるため、韓国へ渡った夫婦が、遺族と対面する場面は、胸がしめつけられた。趙博の朝鮮語によって、戦争の悲しさや理不尽さが、がぜん臨場感をおぴて浮かぴ上がってきたからだ。この映画を私は見ていないのだが、おそらく最大のヤマ場は、この場面ではないかと思う。
 しかしながら、私が堪能したのは、ラブ・ストーリーとしての魅力である。最終場面、男の船が荼毘に付されるところで、「そこには妻の姿はありませんでした……」と、趙は語った。当然予想できる展開ではあるが、その言葉を聞くことで、私たち観客は、『ホタル』という物語に参加することができたのではないか。それゆえ、大きな感動を覚えることができたのだと考える。
 お話を聞かせる話芸から、観客の想像力とともに物語を構築していく話芸へ。趙博の試みは、ギターや歌の効果を言及するより前にすでに、はるか文学からも映画からも距離を置く、新しい芸能ジャンルに成長しようとしているようだ。(原健太郎)

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 小さな小さな雑誌ですが、これからも毎月発行していきます。「それじゃ、つきあってやろう」という方がありましたら、ぜひともご購読をお願いします。
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『部落解放』2003年7月号

連載「東京音楽通信」 文・藤田正 (remixed version)


  大阪に趙博というシンガーがいる。西成生まれで、身長が一八二センチ、体重が百十キロという巨漢の在日二世だ。人呼んで「浪速の唄う巨人」。
 体も声も大きな趙博の、第六集となるアルバムが『彼処此処』である。『彼処此処』は、気迫の中にユーモアがあり、ユーモアの中に踏みにじられた人々の怒りが見えるという素晴らしいライブ2枚組である。
 『彼処此処』はまた、大手レコード・メーカーでは発売することのできない、歌う本人の主張がはっきりと汲み取れるアルバムでもある。というのもアルバムには、バックをつとめる板橋文夫らのフリー・ジャズに始まり、浪花節、沖縄歌謡、朝鮮歌謡、演歌とジャンルなど関係なく集められているが、つまるところこれらは、反権力と「底辺に生きる人のために」という姿勢に貫かれているからである。たとえば、六十年代に暗殺された黒人宗教家、マルコムXの有名な「アメリカの悪夢」(白人社会に対する徹底的な抗議演説)を朗読したかと思いきや、続いて「奇妙な果実」(リンチにかけられた黒人をテーマにしたジャズの名曲)へと歌いつぐ場面などは、まだCDが始まったばかりなのに「いったいどこまで連れて行かれるのだろう?」という気持ちにすらさせられる。
 それだけ趙博の歌(舞台)には迫力と説得力がある。
 アルバムには「一本の鉛筆」も登場する。美空ひばりがステージだけで歌たということで、彼女の死後に話題になった反戦歌である。「チョソン・アリラン」もある。北原ミレイの「石狩挽歌」もある。
 朝鮮半島の統一を願うかつての放送禁止歌「イムジン河」は、オリジナル歌詞と日本語詞と英詞を加えての三カ国で歌われる。
 美輪明宏の名作「ヨイトマケの唄」もある。趙版の「ヨイトマケ」は、オリジナルと異なり、日本語にいくぶんのナマリがある男性が主人公になっている。そしてこの主人公の男性が、ヨイトマケのお母さんのおかげで大学も出ることができたものの、未だ「まともな職にゃありつけず」と歌詞を変えて自分の今を語るのである。この変更が在日の青年をイメージさせているのかどうかはわからないが、エンジニアとして働く息子を主人公とした美輪明宏のオリジナルよりも、さらに差別を射抜いていると直感することは可能なはずである。
 「艦砲ぬ喰ぇぬくさ」もユニークだ。「艦砲ぬ…」は、沖縄戦をテーマとした歌の中で一番に激しい内容を持つもので、題名が言わんとしているのは「戦争で生き残った我々とは、米軍による艦砲射撃に殺されずにすんだ、食い残しなんだ」ということである。この歌を沖縄のシンガー以外で聴いたのは初めてだが、ウチナー口が滑らかかどうかといったことは抜きにして、趙博のような存在でなくては、とうていこなし切れないヘビー級の歌であることは間違いない。
 『彼処此処』は、こういったメッセージ・ソングとして重要な作品と、趙博自身のルーツが垣間見れる自作品によってできあがっている。時に重い内容の歌と対照的に、明るく(そして声の大きな)会話も面白く、深刻になればいくらでもなれる舞台進行のあり方を、常に前向きな手触りにしているのは趙博の個性のはずである。アンコールの「ソウルからピョンヤンまで」にしても、タクシーに乗れば五千円で行けるあの場所へ「夢でもいいからアクセルふんで(離散家族も乗せて)ブッチギって行こう」と彼は快活に歌ってみせる。
 歌手として、あるいは言葉を伝える表現者として、そのヨドミのなさが見事な趙博のアルバムである。





朝日新聞大阪版 5月12日


[ひとメモリー] ミュージシャン 趙博さん(46)


  182センチ。110キロ。「浪花の唄(うた)う巨人」。1本の映画を丸ごと語ってみせたマルセ太郎の持ち芸を受け継ぎ、1年前から「歌うキネマ」に取り組む。
 マルセさんの「スクリーンのない映画館」は、語り芸の一級品でした。パントマイムの技術に裏打ちされた演技に、独特の批評眼があって。マルセさんは2年前に亡くなったけど、僕はもう一度、あの語りを見たかった。
 でもやる人がいないから、自分がやるか、と。マルセさんと同じようになんてことははなから考えてない。歌手だから、語りの合間に場面に合った歌を盛り込んでる。だから僕のは「歌うキネマ」。
 マルセさんとは阪神大震災で被災した障害者作業所を再建しようというボランティア活動で97年に知り合った。色黒の、ちっちゃいおっちゃんが、初対面でいきなり機関銃みたいに「笑いというのはねぇー」と自説を語り始めるの。それがすごく面白くて、で、勝手に付き人みたいなことを始めた。僕が訪ねて行くと、黙ってスッとカバンを出してね。マルセさんは僕の居場所をつくってくれた。
 僕は声高に訴えるっていうのが苦手。言葉じゃなく音楽で、というのもダサい。だったら自分の思いをどうやって伝えるか。マルセさんを見ていて、その究極の方法が芸なのかなと思った。人でなく芸を売る。でも思想は相手にじわーっと伝わる。「歌うキネマ」を去年から始めたのは僕の芸人宣言。歌ってるだけの方が楽なんですけどね。

 ●西成区生まれの在日2世。12軒長屋の2階の2間で親子6人が暮らした。1階は両親の溶接工場だった。
 右目は雑菌が入ったとかで生後2週間で失明した。小学生のころの服はつぎはぎだらけ。借金取りが来れば、僕と妹2人が盾にされた。飯も満足に食えへんのに、夢や望みなんて持てますか。自然と現実主義者、唯物論者になりました。
 いまやから言えるけど、大学3年まで盗癖がなおらなかった。買えないから盗む。単純な発想です。文房具屋で消しゴム、駄菓子屋でお菓子。高校生のころには、万引きをした本を古本屋に売ってお金にすることも覚えた。
 貧しいもんが堕落していく典型でしょうね。どこか世の中を見限っている。でも妙な幻想を持っていない分、だまされない。若いころ、北朝鮮へ渡ろうと仲間に誘われたことがあるんですが、僕にいわせればユートピアなんかあるわけない。行っていたら大変でした。貧乏のおかげで助かったようなもんです。

 ●差別に負けるか、と中学、高校時代は猛勉強した。20歳までは日本名の「西山博」。学生運動中のある事件をきっかけに本名を名乗った。
 学生運動をしていたころ、対立セクトのやつらに夜道で襲われて「お前、朝鮮人やろ。バラしたろか」と、たちの悪い脅しをかけられた。そのとき、もう逃げてたらあかん、と腹をくくりました。民族回帰です。アリランにパンソリ。民族の文化を必死で勉強し直した。
 それからはアイヌ、沖縄、障害者、同和と、徹底的にマイノリティー志向です。貧乏、在日、失明。足を踏まれる側、のけもんにされる側に心が自然と吸い寄せられた。
 大学院を出てからは、大学の非常勤講師や予備校の講師をして英語を教えた。その一方で、グループで民族音楽をやっていましたが、92年からは1人になりました。

 ●この10年でCDのアルバム5枚、シングル1枚を出した。「歌うキネマ」も含め、ライブは年に100回近い。
 いまのところ音楽活動は収支トントンです。メジャーになりたい? いや、そんな色気はないですね。メジャーになるって、自分の表現や労働の対価を、芸能プロダクションやレコード会社にピンハネされることでしょう。あほらしい話です。
 結局、マイノリティーがもっているエネルギーが好きなんでしょうね。予備校講師を20年続けているからわかるけど、予備校がマイナーだったころというか、「浪人してゴメン」みたいな時代は、予備校にすごくパワーがあったし、生徒も面白かった。いまはメジャーになってパワーダウンした気がします。
 マイナーだからこそ自由でいられると思うんです。売れると、失うものも多くなる。だから、万一、僕がテレビでちやほやされるようになったら、世の中がよほど変わったか、僕がダメになったか、どっちかでしょうねぇ。

                                       (聞き手・奥村晶 / 写真・高橋一徳)
※この記事は、こちらで見られます






'03.3.28 朝日新聞名古屋版夕刊(コラム)より

魂宿る「歌うキネマ」


  99年9月から3年半の長きに渡って連載させてもらった俺のコラムも今回が最終回。
  思えぱ、今はなきマルセ太郎と古今亭志ん朝に名古屋の地で出会えたことが最大の収穫であった。で、記念すべきラストは一人芸の傑作、マルセ太郎の「スクリーンのない映画館」継承した趙 博の「歌うキネマ」を紹介したい。
  3月5日、横浜市のSTスポットで見た回は、映画「マルコムX」編であった。黒人解放運動のカリスマ指導者の一代記とも言うべき映画を趙はなんと大阪弁で活写して見せた。
 貧困層に生まれ、刑務所でイスラム教に出会い、やがて急進的な闘士になっていくマルコムXの言葉を河内言葉に近い大阪弁と流暢な英語を織り交ぜて語り尽くす。映画を見た俺がぴんとこなかったマルコムの言葉が趙博の肉体を通じで語られると不思議なほど腑に落ちる。言葉に魂が宿るとはこのことか。
  まさに、これが映画を批評的に語り込むマルセ芸の真骨頂である。1時間30分、時にはギタ一でブルースを歌い、笑わせ、客席を全く飽きさせない。「マルコムX」を語りながら、同時にに優れた現在のアメリカ評諭にもなっている誠に時宜を得た企画であった。
  なんと、この猛烈に痛快なライブが29日、「僕らは陽気な非国民」と題して名東区の「うりんこ劇場」(電話052・772・1882)で行われる。共演は一人芸の達人松元ヒロ。おすすめだ。最後に読者の:皆さんありがとう。ではまたどこかで。 (岡町高弥・ライブ評論家)





機関誌『横校労』No.361より

路地裏から世界を討つ歌 ―― 趙博さんのコンサートを聴いて


 チョウ・パクさんの歌は「歌つぷて」だった。バシバシと体に当たっては染み込んでいった。
  出だしの大阪環状線の歌、地名を知らない悔しさ。調子のいいりズムに頭がついてゆけない。と、次の歌は何と加川良の「教訓?」、ニクイネェ! 体も頭もスウーっとノっていく。そして、阪神大震災で亡くした友人を詠ったという「合わせ鏡」。曲名をメモし忘れたが、<西成の路地裏から世界が見えたけど、ひもじさを満たす糧はなかった。冷たさを癒す時はなかった>という歌。いずれも抒情と批評を含んで<生きとし生ける物が残していった物語にそっと触れて>大胆に歌い放った歌つぷてであった。「ヨイトマケの唄」はまさにそれで、高度成長時代に「母と子の無償の愛をうたった名曲」などではなく、生きていくために日々の糧をやっとこさ手にする在日朝鮮・韓国人の姿がふつふつと浮かんできて、この歌の本当の意味のようにさえ思われた。まだ修行中というパンソリに涙がにじんでしまった。(映画の『風の丘を越えて』のシーンを思い出してしまった。)さらに、『君が代尽くし』のなんという軽さと鋭さ。こうした地点に立てて初めて別の国家という考えが持てるのかも知れないなと思った。それにしてもロシア風に歌うとピッタリだというのはおもしろかった。アンコールでは「臨津江」をはじめて朝鮮
  それにしても何という芸域の広さだろう。河内音頭、浪曲、都々逸、フォーク、演歌、パンソリ……、それぞれの歌にそれぞれの表情をのせて歌い語る ―― こんな歌い手が日本にいただろうか。岡林信康は美空ひばりまでいったのに、高石友也はナターシャセブンをつくったのにパンソリまでは届かなかった。三上寛や加藤登紀子、友川かずきとも違う。もしかしたらとてつもない人の歌を私たちは聞いたのかも知れないなと、アンブを運ぶお手伝いをさせてもらいながら、巨大な後姿を見ながら恩っていました。
 チョウさん、ありがとうございました。 (田中敏治)



※昨年11月に行われた、横浜学校労働者組合結成25周年大会でのコンサートレポートです。本誌には、佐々木賢さんの講演記録も掲載されています。必読!!
  横校労HP http://www.ne.jp/asahi/yokokourou/home/
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