『京都新聞(夕刊)』'91.9.30  第1面「人プリズム」欄

予備校講師・趙 博(チョウ バク)さん


 通信衛星を利用して全国で三万人が受講する河合塾のサテライト講座。昨秋の特別企画「人権と差別を考える」で講師仲間の菅孝行さんと並んでカメラに向かった。在日韓国・朝鮮人に対する差別やアイヌ差別について語った。ファクスで意見を求めたら「日本人の悪口ばかり言うな」と何通か。「日本の若い世代が『在日』の間題をいかに知らずにいるか、よくわかった」。
 肩書きは河合塾講師。英語と小論文を担当する。講義は大阪、名古屋、東京で。関西大人権問題研究室で人種・民族問題を掘り下げる。河内長野市の公民館講座で週に一度、朝鮮語を教える。高校時代に覚えたギターで作詞・作曲をこなし、友人たちとパンドを組む。ステージに立つ機会は年に数回。韓国のフォークソングや自作の曲を歌う。『橋』と題した近作では自らが住む大阪市生野区、コリアタウンのたくましさを誇らかに歌いあげた。
 民族意識に目覚め、朝鮮語を学び始めたのは学生時代。34歳の今、「民族名を名乗ることで日本人の排他性や差別意識を告発できる時代ではなくなった」。名乗りを上げて問われるのは人間の中身だ、と考える。音楽もメッセージソングにこだわらず、純粋に音楽として評価されるものを志す。「今はまだ、思いをそのまま歌にしているだけ」。これも近作『待ってまっせ』の一節に「闘いまっせ/その日が来るまで/夢を見失いかけたけれど/(略)/ぎょうさんの俺とあんたで/腹に一物二物/闘いまっせ」と。
 塾にはちょっと毛色の変わった講師仲間が多いという。「浸透圧の実験と称してビーカーでうどんをゆがいた講師がいる。あれには負けた」。この人は、ギターを提けて教室へ。『ウィアー・ザ・ワールド』を歌って英文法の要点を説く。教壇に立つことの権威をさらりと打ち払いながら、教えるべきことはしっかりと。
 「夏はどうしても飲みすぎて」やせられず、体重百余キロ。丸顔にサングラス。巨休を少しも持て余すことなく、軽快にさえ映る身ごなし。一見、大きな利(キ)かん坊は、しなやかに「在日」を生きる。


(文・矢守治彦  写真・安田喜信)


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(財)兵庫部落解放研究所『ひょうご部落解放』Vol. 56 ('94.3.10)

「映画が描く社会の一断面」 【月はどっちに出ている】  趙 博
▼ とにかくおもしろい
 久々にさわやかに笑える映画を見た。「在日もので"差別用語"がバンバン飛び出してくる」という下馬評に釣られて、また「崔洋一・監督、梁石日・原作、鄭義信・脚本」という豪華スタッフの布陣に惹かれて行った。
 主人公はタクシーの運転手・姜忠男(在日朝鮮人)で、舞台は束京。今まで「在日」を真正面からは題材にしてこなかった崔監督が、彼一流ハードボイルド・タッチでどう料理するかが見物だな、と私なりに(勝手に)期待していたのだが意外や意外、何の飾り気もないすきっとしたシーンの連続だ。
 おもしろいのは、「在日」の主人公にフィリピン女性の恋人がからみ、運転手伸間にはパンチドランカー、イラン人、老整備士等がいるという設定。つまり、「在日」そのものはすんなりと描き、その周囲の東京的――日本的――状況の進行の方をコミカルに、時にはハードに渦旋させることによって「在日問題は日本問題だ」という翻身をそこかしこで起こしているのだ。このタッチが実に気に入った。このタッチがフィリピン女性のおもろい大阪弁や、役者どうしの科白の小粋さ(これまた、鄭義信独特の「新宿梁山泊」的世界を十二分に見せつけてくれている)と、カメラ位置・凝視のハードさを可能にしていたと私は解釈する。

▼ 挑発的(差別的?)な作品表現
 この映画は、在日朝鮮・韓国人であれば誰でもが日々接している状況・経験・生活を少しシニカルに、そして少々デフォルメして描いただけだ。それもドキュメンタリーではなくドラマにするならば最低限必要な所為であって誇張やフィクションではないという程度で、である。なのに「差別を助長する」などといった意見を私は、一度ならず聞いた。どうしてだろうか。いや、私も見終わってから「批判派」の存在を予想しえた。「テーマ」に引きずられて襟を正して観た観客は、おそらくこの映画に嫌悪感を覚えて、「〈在日〉を刺身のツマにして売り物にした」などと文句をいうに違いない。
 しかし、映画のパンフレットにも力説していたことだが、〈アジア・朝鮮・在日〉などといった「重いテーマ」を、この日本ではいつの日からか、笑いの対象にしてはならず、「まじめで真剣な考察・洞察・表現」を通してでしかアプローチできなくなってしまっているという事情がそうさせるのだ、と言いたい。その意味では挑発的作品である。その挑発にまんまと乗った者は、不愉快になる。――私は「武器としての笑い」は両刃の刃であって、心底大声で笑いとばせる感性が勝利するのだと常常恩っているが、「反差別小市民」の群は、「笑われる敗北」には敏感で、「笑い飛ばす勝利」を知らない、だから〈不愉快〉になる。
 例えば、例のパンチドランカーが何度となく「俺は朝鮮人は嫌いだけど忠さんは好きだ。一瞬、金賃してくれよ」とせまる。何の脈絡もないところで、恋人とのセックス中に、食堂で…。忠男の母は在日一世で北朝鮮に帰国した子どもを持つ。「結婚相手は、済州島出身者・民団系はダメ!」と忠男に言い聞かせている(差別的だ!)。「北」ヘの仕送り物資にこっそりと〈円〉を忍ばせ、生計はフィリビン・バーの経営で立てている。不平を言うホステスたちに「私は昨日・今日日本にやって来たあんたらよりご30年も先輩なんだよ。私の言うことが間けないの!」とえげつなく労務管理を追る。忠男の勤めるタクシー会社の社長は、彼の朝鮮高校の同級生。同じ同級生の金融業者に騙され、15億もの借金を背負う。
 「啓発ブランド」の映画はこういった〈事実〉をあえて捨象して作品をつくる。――それだけの話なのだ。逆にこの映画は、〈不愉快さ〉の奥にある己の差別性を扶る。――それだけの話なのだ。「差別云々」という感性を、逆に差別されている当事者が嘲り笑っているのだ、と思えた。笑えない自分が笑われている――なんとも落ち着かない、こそばゆい印象こそが面自い。

▼ 「メガロポリス東京」的文化状況
 それぞれの(重い!)背景を背負い、すべての登場人物がひと癖もふた癖もある中で、唯一「まとも」なのが、麿赤児が演じるタクシー会社の会計係であるというのも面白い。実は『月はどっちに出ている』は彼が発する科白なのだ。自衛隊上がりのクソ真面目な新米運転手がいつも道に迷い、「自分はどこにいるのでしょうか」と麿に電話をかけてくる。ほとほとあきれた麿が「月はどっちに出ていますか、月に向かって走りなさい」と指示をする。客席からは笑いが起こるが、このまじめなやりとりのおかしさこそがこの映画のキーワードだと言えば、「啓発指向」の諸氏もおわかりだろうか。前衛舞踏家である麿が演ずる「まとも」が、自ずと哀れさすら醸し出していて実に妙である。
 それに、主人公をはじめ、主要な在日朝鮮人役がすべて日本人の若手俳優だというのも大したものだ。忠男役の岸谷などは、いわゆる「顔面登録」と言っていいほど朝鮮人らしい顔つきなのだが、三宅裕司率いるスーパー・エキセントリック・シアター所属の役者で、歴とした日本人。東京では人気DJでもある。私はこのキャスティングに東京文化を感じた。メガロポリス東京は今や「人種と民族の坩堝」と言っても過言ではない。新宿ゴールデン街で飲んでいると〈在日〉はむしろ評価の対象で、私など「朝鮮人のくせにもっと朝鮮人らしくできないの?」などと日本人から言われることも度々。「反差別」ヘの共感・共闘を通じて「在日」の事情が目本人にも理解されているという「望ましい」日常では決してないのだが、「生活」の中に、まさに東京的文化状況を通じて「在日」は確実に意識されている。
 関西はその点で絶対に後れている。この映画が大阪よりも東京で人気があるのは、きっとそのせいだろう。『理解と共感』のフィルターが首都圏の方が太くてぶ厚いのだ。同時にそれと同じくらい差別も太く、厳しかろう。だから〈笑い〉なのである。〈笑い〉こそが日々交々ヘの入口・出口なのだ。

▼ 現況を討つナウい視座
 崔監督はこの作品を通じて己もその一員である在日朝鮮人の日常を描き切った、などとは決して自負していないはずだ。「日本の奴等に、お堅い在日の愛国主義者に、ちょっと懐を見せただけさ」程度のニンマリとした彼の顔が浮かぶ。だからこの映画の評価はまちまちだ。制作した本人が肩の力を抜き、「おい、俺たちってこんなんだよな」という構えで我々に追ってくるのだから、「そうですよねえ」または「ちがうよぉ」としか言いようがない。その「〜だよな」の幅、そう言ってよければ状況への視座のナウさが、われわれの「人権運動」のダサさを討つのだ。――私にはそう思えてならない。
 だからこの映画は何も解決しない。日常から日常へ帰っていくだけだ。その回路は観客本人がみつけろと、ドンとわれわれを突き放す手法はやはり、ハード・ボイルドだ。崔洋一ファンの一人として、私は大きく拍手した。

〈データ〉
『月はどっちに出ている』
監督=崔洋一/原作=梁石日(角川文庫、ちくま文庫『タクシー狂操曲』より)/脚本=鄭義信・崔洋一/撮影=藤澤順一/プロデューサー=李鳳宇・青木勝彦/音楽=佐久問正英、音楽プロデューサー=石川光/製作・配給=シネカノン

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雑誌『部落解放』372号('94.4.10)  「水平線〔巻頭言〕」

「ギョーカイで生きる芸人たちヘ」 趙 博
 業界と言うコトバは面自い。例えば「うちの業界では…」と教肺が言えば少々の〈不謹慎さ・皮肉〉が手伝って客観化して喋ってるな、と伝わる。「この業界は…」と僧侶が言えば〈意外さ・突き放し〉も手伝って割り切って言ってるな、と理解される。元々産業・商業・流通・サービスといった分野の総括的表現として、また、特定の商品生産分野や業種を指して【業界】を使ったのだろう。そして、そこには一定の近代的生産・流通現場であるという語感が伴っている。(因みに農業の「業界」はなじまないでしょう。)これを【ギョー力イ】とカタカナ表記してしまうことで付加価値を醸すことにもなる。
 俺はかつて〈大学ギョーカイ〉にいた。いま、〈予備校ギョーカイ〉で飯を食っている。いずれにせよ〈教育ギョーカイ〉だ。知識や技術、はたまた人生観・価値観を売る商売である。この頃はマイナーながら〈音楽ギョーカイ〉にも足をつっこんでいる。エンターテイメントを売る商売だ。「もの」を作っていない以上オノレの売るモノは〈芸〉である。芸人はなにも寄席やテレビ・ラジオにだけいるのではない。大雑把だが、生産・流通ギョーカイにいない人間はみな芸人だと言えないだろうか。世間では「精神労働」なんてカッコイイ定義が与えられてはいるが、俺に言わせりや、みな〈芸人〉だぁ。
 大学院というところで生活してたころは〈マネキンギョーカイ〉で飯を食っていた。何も人形のバイトをやっていたのではない。スーパーや百貨店の試食販売人、あれだ。話芸巧みにモノを買わせる「販売促進」で俺は資本論を実感できた。声が嗅れるほどの労働をして売り上げが20万あろうが全然売れなかろうが日給は6500円。しかもそれはメーカーの負担で小売業者の腹は痛まない。タダで便える人間がやってきてモノを売ってくれる。「ついでに掃除や他の商品の搬入等を手伝わせても文句は言うまい。――こうなっていいようにこき便われる。一度ハムと豚肉の味嘩潰けで一日60万売り上げたことがある。金を計算して我ながら喜んだが、俺の日給に変わりはない。モノを動かし富を生んだのは紛れもなく自分なのにその見返りはない。俺の血と汗の労働は「当初から見込まれていた必要経費」であり「可変資本」だったのだ。前日大学院のゼミで読んだマルクスの正しさを確認して溜息も出なかった。
 しかし〈芸人〉の解放はありえないと、俺は思っている。いや、一番最後でもいいと思っている。芸を磨かないうちから「解放されたい」なんて言うのは芸人の風上にも置けぬ奴だ。テメェの芸のなさを棚に上げて「世の中が悪い」なんていえる義埋がそこにある。このごろの芸人はすぐ「先生」になりたがる。芸人は芸人らしく己のギョーカイで生きよう。――これが俺は言いたい。それにも一つ――「芸は売っても人生を売るな。」芸人は主要な生産関係から排除されているだけに「奴隷根性」がつきやすい。強いモノには語い、弱いモノを踏みつけてでも仕事を貰おうとする。これはいけない。大学教授・評論家・文化人・政治家なんていう〈芸人〉は特にそうだ。醜悪だ。〈人権ギョーカイ〉で生きる芸人たち!心しようぜい。俺も日々、隠忍自重して芸を磨こう。己の解放なんて一番後でいい。 (チョウ・バク ミュージシャン)


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『解放真宗研究会通信』13号 ('94.6.15)

いしかわらつぶてのごとくなるわれらなり  趙 博
 私は唯物論者である。唯物論者であるからこそ、ヒトの持つ苦悩や救い、ロマンや悲願といった問題を〈彼岸〉ではなく、〈此岸〉にて志向したいと思う。だから、神も仏も恐れぬ意志カで、「神仏を尊ぶ」者よりもより深く「神仏」を理解しなければならないのだ。── つらい所業である。
 とはいうものの、同時に私は親鸞の弟子でもある。「弟子は一人も持たん!」と言われた師匠にすれば甚だ迷惑なことであろうが、父親の死によって私は弟子になった。いや「させられた」のだが、自分も積極的に拒否したわけではないので〈弟子にさせられ・なった〉と言った方が正確だろう。
 わが家には浄士真宗本願寺派(西本願寺)発行の『勤行集』と〈意匠登録済み〉―― このあたりが世俗的でとても可笑しい ―― の門徒式章がある。
 仏壇はないものの、母親は毎日遺影の前に「お供え」をし、父が眠る大谷廟には年に一度必ず家族でお参りに行く。私は、町を歩いていて本願寺派のお寺を見ると何故か懐かしみと落ちつきを感じてしまう … こうなってくると、全くいい加減な唯物論者だ。
 こうなった事情を少し書いておこう。

●てんやわんやの通夜
 亡父は1916年、朝鮮の釜山近郊で生まれた。15歳で日本に波って来たと言うから1931年である。1936年から始まる狭義の強制連行政策の前の時代だ。戦前・戦後は京都、敦賀あたりで極道をし、私が母の連れ子として彼の息子になった1960年には西陣で撚糸工場を営んでいた。
 その後工場は倒産、母方の祖父を頼って熔接の仕事につき、亡くなる3年前ぐらいまでそれを生業としていた。腕のいい職人であったが電気熔接・自動切断機等の出現で、業種資格のない父は70年代後半よりしだいに仕事を失う羽目になる。
 この頃、放蕩息子は学生運動でイッパシの左翼になり、公安や外事に追われて25歳を超しても家に寄りつかない、下の3人の子供はまだ高校・中学に通っているという状況で財政は逼迫・極貧状態であった。しかたなく、夜間に行う地下鉄の駅の清掃・防疫の仕事で食いつないでいたが、1985年、死亡。
 ところが死因が解らず、司法解剖に回された。母親は、泣いて止めてくれと主張したが、結果的に労災認定が下りて、雀の涙ほどだが「遣族年金」が支払われることになった。災い転じて福となる、とはこのことだろう。実は「労災認定」になったのは病院側のミスのおかげなのである。1983年に胃潰瘍の手術を受けた父は、その時の輸血による肝炎を患い、ずっと四ツ橋のO病院に通院していた。自宅で倒れ、死亡時に救急車で運ぱれたのも同じO病院であった。
 死亡した日の3日前にも診察を受けていて、病院のカルテには「食事の後吐き気、微熱」と記してあったが、この時すでに(後に解剖で判明した)硬膜下出血が進行していたのだった。当直医師には死因を知る由もない。彼は「死亡診断書は担当医が明日書きます。」と言って、父は一晩霊安室に安置された。翌朝、葬儀屋さんが遣体を引き取りに来た際に、「なんで昨日の夜すぐにに連絡がなかったのかなあ」と不思議がっていたが、とにかく搬出した。遣体が帰宅して死装束をしつらえ、その日の通夜の準備を整え始めたころ、病院側から「死亡診断書が書けない。変死扱いだ。」という連絡が入る。
 直ちに警察が来て、検死の結果解剖することになり、遣族一同大パニックに陥る。「俺等には人の死を悲しんだり、悼んだりする権利もないのか!」私は闘争本能をむき出しにして、病院側を糾弾した。通夜の時間と場所は決定している、今から解剖というなら結果がいつになるやら分からない。
 ともかく「喪主」であり、たちまち糾弾闘争委員長となった私は、奈良の岩本さんに通夜・葬儀の取り仕切りをお願いした。彼は『同朋運動史』の編纂も努めた人で、おとうさんの時代から水平運動・部落解放運動に関わりの深い寺院の僧侶である。

●「迷信・偏見」のない葬犠
 日常は穏やかな長屋に警察が来る、私の怒号と家族の号泣が聞こえる、といった状態で周囲には「何が起きているのか」という疑心がうずまいていたことだろう。それでなくても冠婚葬祭には世間体やしきたりがつきまとう。
 異常事態となった父の通夜・葬儀の事情を察して、岩本さんは切々と「本来の葬儀」の仕方を親戚・近所の衆に説いてくれた。おかげで私は、いっさいの世間体を煩うことなく病院への糾弾、防疫会社との労災の打ち合わせ、司法解剖と埋葬許可の手続き、等々を数時間のうちにこなすことができた。
 遣体も喪主もいないまま通夜が始まったが(私が父と共に通夜の場に到着したのは夜8時前だった)、岩本さんの説教がビシッと親戚や長屋の衆に浸透していたおかげで、戸惑いも滞りもなく儀式は進行した。迷惑したのは葬儀屋さんだったろう。自分たちの出る幕がほとんどなく、何よりも華美な祭壇や引き出物は止めたので、全く儲からなかったはずだ。
 「死体は汚れたものではない。焼香は一回でよいし、焼香止めなどいらん。花は無常を、蝋燭は命をあらわすのだから、造花と電気蝋燭はダメ。四十九日が三ヶ月にまたがるといけないなんて、単なる語呂合わせで気を使わなくても良い。生きてる者が苦労するような葬式なら止めてしまえ。仏さんも親鷺聖人もそんなこ
とは教えてない。」等々の説教に「さすが博(ヒロッ)ちゃんの友達のぼんさんや。」と、皆が感心していた。
 こうして私は、それまでは「思想家」としての親鸞しか知らなかったのだが、岩本さんを通じて仏教本来の生死観と親鸞の教えに、実際に接する事ができた。住職があらゆる偏見と迷信を、ブッダと親鸞に即して払拭してくれるのだから、これほどの教育カは他にあるはずがない。
 出棺・骨拾いの後の食事会は、さながら長屋の衆の〈葬儀相談室〉の様相であった。「仏壇の上にものを置いたらいかんいうのは…」「嘘です」「戸を開けとけいうのは?」「嘘です」── 人々が持っている「汚れ・宿業・因縁」といったものを原典に即して穏やかに批判する岩本さんの姿は、圧巻であった。私は、「趙君、清め塩を注文したのが今目の最大のミスじや。あれ一つ50円ぐらいかかったやろう。何を勉強しとるんじゃ!」と言われ、立つ瀬がなかった。

●墓なんかいらん
 父のお骨は近所の本願寺派のお寺に一年預かってもらい、墓をどうするかという段になって「大谷にもっていきなはれ」というアドバイスを頂き、そうすることにした。
 父ゆかりの地でもある京都、年に一、二度お参りして、おいしいものを食べて帰るというのもなかなかの風情。「五千円で永代供養してくれる」のに何を思ったか母が6万円も包んだ。大谷廟で特別に長い長いお経を聞かされ、私達はおみやげを貰い、「門徒」になっていた…。
 その世俗的手続きにはまいったが、父が親鸞の横で永眠したことの方が嬉しかった。生前「韓国に骨の半分は持っていってくれ」と冗談まじりに言っていた父であったが、私は全くこだわらなかった。在日朝鮮人の中には、一族の長の死をきっかけに立派な墓を故国に作り、親戚一同数百名を集めて葬儀を行う人も少なくないが、「仏さんはそんなことをしろとは教えていない」。
 世代が変わり、無縁仏になるよりは親鸞と共に居る方がよいのだ。私は冗談で、「うちの父の墓は立派だ」と友人達に言うことがある。その度に岩本さんの受け売りで「葬儀批判」をする。実に面白い。
 ── こうして、普段は世間に対して批判的な言辞を吐きながら冠婚葬祭となると〈世間〉を見習う人が多い中で、私は僅かな誇りを守っている。
 親鸞の教えは「価値の転換・異化」にこそ、その真髄があると私は思っている。嫌われ・嫌がられ・恐がられてきた存在に、別解釈を与えて啓蒙するのではなく、本質において捉え返し、奥底において価値を翻す所為は、Black is beautiful.と宣言したアメリカ黒人の精神、「えたであることを誇る」とした水平社宣言、「天は飯なり」と看破した朝鮮・東学党、その他同様の思想に通じている。現代に生きる私達は、価値を翻すどころか、それを疑うことすらままならない。まことに不自由な時代に生きている。
 私はこの〈転換・異化〉の自由だけは持ち続けたい。この自由が圧制に会うならば、(真宗教団の内部はどうであれ)私は堂々と「俺は親鸞の弟子だ」と言うことによって闘うであろう。〈いし・かわら・つぶて〉が、どこかの国の王様のように「さざれいしの巌となる」ことは決してない。父の死は、親鸞の救いにあがなわれていると、唯物論者の私は思っている。


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"Japan Times" ('94.11.20)  KANSAI の欄

Korean targets sour note of discord
Concerts push pluralism, rights, end to discrimination 

By MASON  FLORENCE



PAGGIE CHO takes time out from rehearsing for concerts with his band Garnet Rage to perform some traditional Korean folk music for guests at a venue in Sanda, Hyogo Prefecture.
  OSAKA ― For Paggie Cho, a South Korean resident of Japan, both fronting a popular local band and teaching English are means to a greater end ― educating people about discrimination, human rights and the dream of a multiethnic society.
    Cho and other Korean, Japanese and Okinawan musicians will hold a second "Celebration Concert" on Nov. 27 in Suita, Osaka Prefecture, on the theme "Just what is Japan?" on the heels of its sold-out show Saturday night in Tokyo.
    The group organized the concerts after a series of incidents in which resident Korean schoolgirls were assaulted and their traditional "chima-chogori" costumes were slashed with knives.
    "Since the years of Japan's domination over the Korean people, chima-chogori have been a symbol of ethnic pride among the Korean minority group in Japan... Behind those hideous attacks, we can see dangerous motives lurking...the knives that cut the chima-chogori pierce to the very heart of our democracy," Cho said.
    According to Cho, the chima-chogori incidents are a clear indication of the current situation here.
    "There is a very dominating feeling here of Japan as No. 1. Most Japanese fail to recognize that in the past, (Japanese) happiness was built on the unhappiness of people in other Asian countries. This is not genuine happiness," Cho said.
    The multiethnic concerts typify Cho's form of activism. Rather than go on the defensive, he emphasizes a positive message: Japanese can live richer lives by solving issues of discrimination and embracing the minorities in their midst.
    Cho, 38, grew up on the mean streets of Osaka's Nishinari District, home of Japan's largest day-laborer community, and remembers discrimination so pervasive it even came from within his home.
    "My father discouraged me from going to high school and suggested I learn a trade. Not that he was against education, but he could see no practical use for me to study since I was a Korean guy... He kept telling me, 'No matter how hard you try, Japanese society will never accept you," he said.
    Against his father's wishes, Cho majored in Russian at Kobe City University for Foreign Studies and then went on to complete a master's program in education. At the university, he began thinking about his Korean background, and retook his Korean name after a policeman at an antinuclear rally, who knew his identity, baited him for "pretending to be Japanese."
    Now an English language teacher at the Kawaijuku school, Cho includes lessons on modern Japanese history and human rights in his high-energy lectures. After hours, he trades in his blackboard and chalk for an electric guitar and moonlights as the leader of the rock' n' roll band Garnet Rage.
    The band is currently. gearing up for the release next month of its second CD, entitled "Ranman" (meaning a flower in bloom). In Cho's music, which draws on various ethnic influences, the songs pack strong messages about such issues as discrimination, the environment and ethnic pride ― messages that form the theme for this month's concerts.
    "I believe in the power of music on human attitudes. Naturally, it becomes a way to solve issues. The concerts are not being held in protest, but in celebration of a creative society where we accept and respect differences, and learn from one another. After all, this is what music was originally all about...bringing people together."
    Next Sunday's concert at Suita's Banpaku Hall will feature Kyushu-based Korean singer-songwriter Kim John, Okinawan musician Kina Shokichi, folk duo Kami Fusen and vocalist Mitsuteru Kimura of the blues band Ukadan. Tickets are \4,000 or \3,600 in advance. For information, call (06) 252-4148.

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『IMDAR−JC通信』NO.36 ('96.3.20)

日本・カナダ マイノリティ会議の感動   趙  博
 昨年11月23日〜25日まで、バンクーバー市において「日加マイノリティ・フォーラム」が行われた。<Culture in Struggle / Canada-Japan Minority Forum>と題されたこの会議には、被差別少数者の立場に立った文化活動を自覚的に担う「プロ」たちが主立ったスピーカーとして招待された。日本からは、アイヌ民族のチカップ美恵子、西表島から石垣金星、浪速の太鼓集団『怒』、そして在日韓国人である私、明治学院大学国際学部の竹尾茂樹さんらが参加し、カナダの非主流(non-dominat)
に属するアーティスト・研究者らと交流をした。各人・各集団が担っている文化・芸術・表現の<成果>を持ち寄っり、それを通して日常の人権運動のあり方を探ろうというのだ。「人権運動の中の文化活動」では決してない。少数者の文化に拘り、そ
のモティーフでもって堂々と表現活動をしている者たちが語り・演じ・表現しながら、楽しみ・考え・意志表示するのがこのフォーラムの指向・趣向であるわけだから、当初から期待は大いに膨らんだ。フォーラムの主催会場であるバンクーバーJCCA
(日系カナダ人協会)は、二日半にわたって300名が参加する大盛況となった。

●「チマ・チョゴリの少女襲撃事件」と日系カナダ人
 94年春から夏にかけて日本答地で起こった、朝鮮学校に通う女子生徒に対する<切り裂き・暴行事件>をきっかけに「チマ・チョゴりの少女が襲われる/ニッポンって何やねん?セレプレーション・コンサート94」と題したコンサートが企画された。束京と大阪で2,200人を動員して成功裡に終わったこのコンサートには「少数者の人権が蹂躙される時、多数者の人権こそが危機に晒ざれている。<可衰想>なのはこんな事件が起きているのに何もできない<在日日本人>の方だ。」という申し合わせがあった。趙博& Garnet Rage、木村充揮& The Blues Gang、喜納昌吉、太鼓集団『怒』、キム・ジョン、東京ビビンバクラブ、李 政美、大倉正之助、岡本利仁、紙ぷうせん、古屋和子といったミュージシャン・アーティストに加えて、吉田ルイ子、本多勝一、チカップ美恵子、貝沢耕一、全城 実、鈴木邦男、デビット・スズキ、北野誠らがゲストとして登場し、曲間に絶妙なスピーチでコンサートをさらに盛り上げてくれた。日系カナダ人で有名な遣伝学者・環境運動家であるデビットは「このコンサートは人類の<多様性>の祝祭である。」と言い、「我々日系人は世代を継いで闘ってきた。金や謝罪のためではダ社会が多様性を認める社会になって欲しいから闘ったのだ。そして我々は勝利し、カナダは多様性を国是とするようになっが故に、より面自い国になった。」と誇らしげに語った。コンサートのパンフレットにも、日本国内のみならず、日系カナダ人、ネイティヴ・アメリカン、アボリジニ一からの「連帯」のノッセージが寄せられた。日本で起こった人権蹂躙事件に対して、Racial Attack だという抗議と、「日本のマジョリティに属する人々は、マイノリティである部落・沖縄・朝鮮/韓国・アイヌの人々から多く学ぷことがある。少数者の<生>のエネルギーとその知恵に、今こそ学ぷべきだ。」という訴えを、異口同音に寄せてくれたのだった。このコンサートの総合プロデュースを担当した私は、この過程でカナダの『リドレス運動』について、特に詳しく知ることとなる。第二次世界大戦時に強制収容所に3万人以上の日系人が収容され、戦後もその措置が続いたことに対して Redress(補償)を日系カナダ人は求め、勝ち取った。「マイノリティの人権を」どいうスタンスではなくて、「マジョリティ社会こそが変わるべきだ」というこの堂々とした思想は、既存の社会システムを前提にして人権のあり方を考えフヘゥス}イノリティとしての知恵と経験を正々堂々と誇り、そのアイデンティティに則って新しい社会システムの対案を示したのだった。私はコンサートを準備し、自分の曲を演奏し歌いながら、<人権>の世界性を教えてもらった気がする。今回のカナダ行きは、私にとってこのコンサートの延長上にあった。

●リドレスどモザイク
 カナダは「モザイクの国」とよく言われる。英・仏のバイリンザルに加え、日系、中国系、韓国系のカナダ人、First Nation(いわゆる「カナダインディアン」)、アフリカン・カナディアン、ラテン系 … まさに様々なエスニシティを持つ人々が<共存>している。今回のフォーラムにはフランス系住民を除いて各コミュニティのアーティスト、研究者が参加した。三歳で香港からカナダに移っ住んだというヘンリー・ツアング氏(ビジュアル・アーティスト)は、「自分は何者かという心の葛藤、また、ビジネス至上主義の香港系カナダ人社会での風潮を熟思して作品を造っている。」と語り、テレサ・マーシャルさんは、「私がインディアンだということで周囲の人はそのカテゴリーに押し込めようとするが、自分はレッテルを貼られたくないし、何にもとらわれない人間として創作活動を続けたい。」と言った。こうした自由な意見、徹底した討論の「かみ合い」が実に楽しく、みのり多いものであった。日本では用意した原稿を読み上げてハイ、オワリとなるところだが、会場全体が好奇心に満ち溢れて「出会いと発見」が延々と続く。(もっと詳しく紹介したいのだが、紙数の関係で割愛し、別稿に譲る。) ハイライトはシュ・コロンビア大学の人類学博物館で行われたコンサートだった。22日、『怒』とバングーバーで活躍する『うずめ』の競演があり、24日にはフォーラム参加者のパフォーマンスがあった。トーテム・ポールが林立する中でのコンサート、しかも飲食も自由というなごやかな雰囲気の中で、次々と<文化>が披露ざれた。観客のノリも最高で、「見方・楽しみ方」をよ〜く知っている。ステージで歓声や拍手の渡動をズンと感じたのは私だけではなかった。
 当然のことだが、日本とカナダでは国情も人権のあり方も違う。「少数者」といっても、カナダの先住民と後にやってきた移民の間題では大きくその内容が異なる。マイノリティという言い方にも賛否両論があっ、「マージナライズド」*と表現した方が良いという意見も出た。ともかく、この有意義なフォーラムを一回に終わらせず、成果を次につなげていこうという合意で幕は閉じられた。「次は日本で」──順序から言えばそうだろう。しかし、私達がバンクーバ一で味わった感動を、いや、それ以上の感激をカナダの友人たちと日本で味わえるだろうか?…残念ながら、素直に疑間に思ったしだいである。「ニッポンって何やねん?」── バングーバーの<人文的美しさ>の中で私はもう一度間うてみた。

(註)マージナライズド:「マイノリティ」が「少数派」という意味合いなのに対して、「マージナライズド(marginalized)」には「周辺の(人たち)」というようなニュアンスがある。

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『週刊朝日』('98.2.6) 「ガイジンで何が悪い」シリーズ?

韓国マフィアにも間違えられた 趙 博 [在日41年]
 一口にガイジンといっても、一件、ナニ人か解らない人もいる。在日韓国人の趙博[チョウ バク]さnん(41)もその一人だ。自称「2・5世」の趙さんは大阪に生まれ育ったが、自分がガイジンだという意識はいつも持ち続けてきた。
 「この間、在日の友達が『変なガイジンが話かけてきてよ〜』って言うから、『オメ〜もガイジンじゃね〜か』って。もう二人で大笑い」
 趙さんは英語が堪能な上に、182センチ、105キロいう体格も手伝って、日本人ではなく日系アメリカ人や韓国人観光客に見られることもある。
 もちろん見かけが国籍不明だというのには、損得両面がある。
 趙さんは、地元大阪のお祭りに、テンガロン・ハットにサングラスという格好で出かけたことがある。出店に立ち寄り、フランクフルトを指さして百円玉2枚をカウンター
に置いた。すると、出店の兄ちゃんが、片言の英語で話しかけてきた。「モア・フィフティー」
 50円足りないと伝えたかったらしいが、とっさに何を言われたのかわからなかった趙さんは、無言で首をかしげた。「ん〜、モア・フィフティー … ええい、ガイジンさんにおまけ!オッケー、オッー!」
 兄ちゃんは、趙さんをアメリカ人と勘違いしたのか、笑顔でフランクフルトを差しだし、趙さんも黙ったままで受け取った。
 だが、いつも得ばかりしてりるわけではない。
 あるとき、趙さんは友人の結婚式に出席するため、スリーピースのスーツを着て出かけた。在日韓国人の友人と大声で韓国語を喋りながら大阪・ミナミの繁華街を歩いていたら、まるでモーゼのように、人の波が彼らをよけて真っ二つに分かれていく。不思議に思った趙さん、しばらくして韓国マフィアに間違えられたと気がついた。
 在日韓国人を見分けられないのは、一般人だけではない。
 趙さんの友人が、先日、自衛隊の勧誘を受けた。「特殊免許も取れるし、就職にも有利だよ。どうだ、近くでメシでも食いながら話そう」
 スカウトの自衛官は、彼を高級ステーキ店に連れて行ってくれた。スカウトの懸命な説得のかいがあって、その友人は真剣に自衛隊に入ることを考え始めた。高いステーキを頬張りながら、彼は念のために聞いた。「僕、在日だけど大丈夫なんですよね」
 自衛官は無言で立ち上がり、伝票を持って去ったという。  (文と写真 シャノン・ヒギンス)


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大阪人権博物館(リバティおおさか)『季刊 Liberty』

日本映画のなかの在日コリアン ――『新・悪名』を手がかりに――  趙 博
 任快映画華やかをりし頃、筆者もご多分に漏れず、高倉健の主演映画を相当みたものだった。新世界や飛田の低料金の古い映両館を訪ねては『網走番外地』『昭和残快伝』『山日組・三代目』のシリーズもの、『冬の華』、後の『プラック・レイン』(おっと、これは刑事物)など、かなりの本数をみている。
 中でも『三代目襲名』では、「三国人連盟」なるギャング団が登場し、神戸市の助役が高倉扮する田岡に対して「山口組で自警団を作ってあいつ等をやっつけて下さい」と頼むシーンがある。その助役を岩田直二さんが演じていたから、爆笑してしまった。

◎「悪役」イメージと在日コリアン
 「三国人連盟」とはとりもなおさず「在日本朝鮮人連盟」(1945〜49)のことだし、「自警団」ということばを聞くだけで関束大震災の虐殺事件を連想してドキッとしてしまう。娯楽映画なのに歴史の再認識を強要ざれるのは、たまったものではない。しかも、多くの観客がスクリーンに現れるストーリーを鵜呑みにしてしまうだろうから、罪深いとも言える。
 「闇市と第三国人」――この組み合わせは、戦後直後の日本人なら誰でも知っていたし、その時代背景を描いた映画ならば、必ずと言っていいほど「悪役」や「弱いもの」として朝鮮人が登場するのが常だ。
 「第三国人」という呼称は、戦後処理の過程で「戦勝国(連合国)でも敗戦国(日独伊)でもない」国民という意味で、主に在日する朝鮮人・台湾人を措して用いられた。当事者が「我々第三国人が…」などということは、皆無に近かっただろう。
 ところが、映画ではその名を冠した団体まで登場させている。これは「朝鮮人」という呼称が戦前においていかに差別的に便われ続けてきたかという逆説的な証左だとも言えよう。因に、戦前は「内地在留半島出身者」などという呼称も存在したのだ。
 GHQによる「日本占領及ぴ管理のための降伏後における初期の基本指令」(1945.11.1)では、「…台湾人及ぴ朝鮮人は、軍事上の安全の許す限り解放国民として取り扱われる。彼らは、この指令に使用されている『日本人』という語には含まれないが、従来は日本臣民であったのだから、必要な場合には敵国人として取り扱われる」とされた。だから、戦後直後から、1952年のサンフランシスコ条約発効時に一斉に「日本国籍離脱」借置がとられるまでの時期に、「第三国人」呼称が定者していったことは予想に難くない。
 呼称の推移とその根拠を冷静に看取すれば、屈辱の歴史以外に何も見えてこないのだが、映画にビーブ音とモザイク処理をせよと、まさか要求するわけにもいかないだろう。そんなことをすれぱ、かえって「歴史の再認識」作業が開ざざれる結果にもなる。私は、〈読み替え〉という所作で、娯楽性の奥に潜む制作者の感性を浮かぴ上がらせるべきだと考える。

◎『新・悪名』
 さて、ほとんどの日本映画に登場する「第三国人」が、悪と惜悪の対象になっているのに比して、『新・悪名』では、勝新太郎扮する〈八尾の朝吉〉が間市の庶民と共に「反・立ち退き問争」に決起し、勝利を収めるという筋書きの中で、幾ばくかの〈共感〉イメージが全面に出てきている。
 「私の国の酒を飲まないのは、やはりあんたも私たちを心の底では第三国人だと馬鹿にしているからだ」と言われて、下戸なのに無埋してぐいっと飲んでみせ、ゲロを吐き二日酔いする主人公朝吉親分−−みるもの誰もがほのぼのとしつつ笑える場面だ。
 当然その〈共感〉そのものが作品のテーマではないにしろ、そこには〈違いを認め合い、共に生きる〉という今様の人権スローガンを地で行く庶民の姿がある。闇市の民主的改革とでもいうべき謀題に、戦争で打ちひしがれた日本人も朝鮮人も共に立ち向かう――史実としてそんなことがあったかどうかは知らぬが、なかなか格好イイではないか。
 日本人か朝鮮人かではない、庶民の味方か敵かなんだというメッセージは、実にすっきりしているし、何よりも人権啓発の根っこにあるべき〈わかりやすさ〉がある。「異文化理解」等と言わなくても、酒で垣根が越えられる。

◎日本映画のなかの在日コリアン像を探る意味
 実は、十五年戦争の時代には、「同化政策映画」が多く作られていた。その事情は、櫻本富雄「十五年戦争下の朝鮮映画」(季刊『三千皇』34号、1983年所収)に詳しい。その後、「第三国人」を描いた時期、『新・悪名』『青春の門―筑豊編―』『ガキ帝園』(井筒和幸監督作品)『我に撃つ用意あり』(若松孝二監督作晶)
等の「共感・共問・葛藤」を描いた作晶が数本あり(題名は忘れたが唐十郎の作晶もあった)、いきなり当事者の本音が飛ぴ出す『月はどっちに出ている』(崔 洋一監督作晶)が出てきたと一応の俯瞰をしてみる。それが正解かどうかは別にして、「日本映画の中の在日コリアン」を大系づけてみる作業は、サプカルチャー深化の意味を持っていて面白いと思う。逆に「啓発映画」に出てくるコリアン像と比較してみれぱもっと面白いだろう。そうだ、大島渚と北林谷栄を忘れてはいけない。 (未完)

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『北海道新聞』(夕刊) 1986年5月2日

被抑圧民族手を…
平取 / 古式ゆかしくアイヌ式婚礼
大阪の在日朝鮮人夫妻
山盛りご飯で契り



【平取】 大阪に住む在日朝鮮人夫妻が一日、日高管内平取町二風谷を訪れた。四月二十九日、大阪で結婚式を挙げたばかりだが二人の希望から二風谷のアイヌ文化資料館館長、萱野茂さん(六一)らが音頭を取り、二人のためにアイヌの伝統にのっとった婚礼をした。同地区の住民ら百人が出席、アイヌ古式舞踊などを披露し、二人の出発を祝福していた。 二人は、大阪市生野区、関西大学研究員趙博(チョウ・バク)さん(二九)、金君姫(キム・クニ)さん(二四)夫妻。趙さんは、同大の人権間題研究室におり、今年二月に道開拓史の中での、朝鮮人の役割などの研究のために来道、二風谷を訪れた。その際、アイヌ民族史などのレクチャーを、萱野さんから受けたが、「ともに抑圧された歴史を持つアイヌと朝鮮人が手をつなぐのは当然」という萱野さんの考えに共鳴。「新婚旅行でまた来道するが、アイヌの風習通りに結婚祝いをしたい」と萱野さんに依頼、萱野さんも快諸し同地区の住民たちに呼びかけ、この日の婚礼となった。
  萱野さん宅隣の、「アイヌ語塾」で開かれた婚礼では、二人は、チョゴリの上にアイヌ民族衣装をまとって入場、大きな拍手で迎えられた。仲人役の萱野さんがアイヌ語で「差別の痛みを知るもの同士、互いに励まし合っていこう」と語り、二人の健康と幸福をアイヌの神々に念じると、趙さん夫妻も、朝鮮語で「アイヌ民族と朝鮮民族の連帯を」とあいさつした。
  椀(わん)に出盛りのご飯を、二人が半分ずつ食べるアイヌ式の祝言で契りを固めたあとは、趙さん夫妻が朝鮮の伝統楽器、長鼓をたたきながら民謡を歌えば、アイヌの人たちが古式舞踊を輪になって踊るなど、感動的な婚礼となっていた。アイヌの伝統にのっとった婚礼は途絶えており、最近では極めて珍しい、という。

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10  『セレブレーション通信 No.5』('97.3.10発行)から

 「'96年12月15日 ソウルは熱かった!」

 『良心囚のための詩と歌の夕べ』は、15年前から毎年韓国・ソウルで行われているコンサート。もちろん、その収益は監獄にとらわれている政治犯とその家族のために使われる。'96年も、<民主実践家族協議会(民家協)>が中心になって開催された。民家協は80年代の「韓国民主化大闘争」で常に重要な役割を果たし、特に'96は、また新たに多数の政治犯が獄に囚われる状況が生じたこともあって、「民主化・韓国」の今も、様々な活動を担っている。民家協・事務総長(日本風に言えば事務局長)N女性が「9月に趙さんのステージを観ました。12月、来ていただけますか?」と誘ってくれた。勿論OK!8年間入っていた友人のC兄も出てきたことだし、生野の孫さんはまだ獄中だし..むしろ自分にとっては光栄だ!二回目のソウルでのライヴや!..え?..あっ、あらっ、そうか、セレ・コンの直前やんけ..忙しいときやけど、まぁ..ええか、行って来まっさ!14日、ソウルへ。

 「15日、午後2時からリハーサル、本番5時」という連絡を受け、会場の「漢陽(ハニャン)大学・オリンピック体育館」に向かう....と、なにやら物々しい警備。日本のテレビ・新聞雑誌で何回も観たあの「戦闘警察」やんけ。大学正門に陣取って睨みを利かせている。「やはり..」少し緊張気味に歩くと、「どこへ行く?」と訊かれた。「今日のコンサートの出演者ですが、オリンピック体育館はどう行ったらいいですか?」「コンサート?今日は何の行事もない。大学関係者以外は入れない!身分証明書はあるか?」とたたみかけてくる。「いやぁ、あのぅ、日本から来たので..でも困ったなぁ。」「じゃぁ、パスポートを見せろ。」見せると、2、3人、寄って来た。「国籍は日本じゃぁないのか?」「いや、在日僑胞です。」「元々は日本国籍なのか?」と訊くので、私はムカッ。語気を荒げて「この若造が、歴史も勉強してないのか。お前が見ているのは大韓民国発行のパスポートだろう。返せ、このボケ。いいか、俺は絶対入るからな、そこで糞と小便でもたれて、じっと待ってろ!このガギゃあ!!」−−啖呵を切れるほど私の韓国語も上達したものだ..と思いながら、メンチを切る。(なぜがこういうとき、私は心情的にGolgo 13になっている。)即座にその場を離れて、「ひょっとして、えらいことになったのかぁ?」と思いつつ、民家協に電話を入れた。「よかった。さっきホテルに行ったのですがもう出られた後で連絡できませんでした。とにかく今、ソウル警察署長と直接交渉をしています。少ししたら奴らも帰るはずです。正門前の喫茶アムステルダムに行って下さい。仲間がいます。」でも、リハーサルが気になる。「そうや、昔とった杵柄で、塀を乗り越えたるか..。」漢陽大学は小高い丘にへばりつくようにドでかいキャンパスが広がっている。正門から西へぐるっとまわると、ちょうどいい「塀」があった。よし、と思いきや、すぐ近くに、あの戦闘警察が5、6人いる。アカン、敵もさるものや。ちゃんと警備ポイントを押さえとるなぁ..喫茶アムステルダムに向かう。

 「趙博さんですね。私は漢陽大学の講師をしているRです。ここにいるのはみな今日の関係者です。少しの時間、ここで待機して下さい。」小柄な女性が出迎えてくれた。「なかなか組織的にうごいてるな、大したもんや。」と思いながら、席に座る。ガラス窓越しに正門前の様子が見え、ちょっとした小競り合いもチラホラ。私服警官、チラシ・ポスターを脇に抱えた活動家達、みな<目線>で闘っているのが解る。
(シフクいうのは、なんであないにスグわかるのかぁ?シフクに国境はないなぁ..)
 そのうち、鄭 泰春さん、ユン・ドヒョン、イ・チョンヨルら、出演者も結集し出す。スターの出現に、学生らしき女の子達がきゃっきゃ言ってる。「嫌がらせだ。つい先日も難癖つけて、ある大学でのコンサートができなくなった。労働法・安全企画部法改悪策動が顕在化している。もし今日出来なかったら、正門前で歌うつもりだ。」と、鄭さんは『大学封鎖にたいするコンサート出演者の抗議声明』を準備して持参していた。私に「読んでおいてくれ。」と言う。感心するやら、びっくりするやら..「この人達、やっぱり体張って歌ってるんや..。」と改めて思う。ふと、ビクトル・ハラのことが頭をよぎった。

 午後3:30、「封鎖解除の合意がなされました。行きましょう。」とRさん。と同時に数十人の男女が走り出す。ポスターを壁・電柱・路上に貼る者、チラシを道行く人に配る者、正門の前に一列に並んでポスターを持ち「コンサートは時間通り行います。帰らないでそのまま待機して下さ〜い。」と唱和する者。圧巻だ!民衆に支持されている組織!それが主催するコンサート、そこに私も居る。感動という言葉のなんたるかが、我と我が身に迫ってくる瞬間。ギターケースを持つ手に、思わず力が入った。
 行きがかり上、出演者を先頭に戦闘警察と対峙する。私の目前にはブットイ棍棒と催涙銃を持ち、顔面防御付きのヘルメットをかぶった戦闘警察、横には鄭さん以下シンガー達、後ろに関係者、そして、もう客が来始めている。「封鎖合意はなされました。即刻門を開けなさい。」整然たる抗議にもかかわらず、奴らは動かない。幹部らしき奴がトランシーバーでなにやら連絡を取り合い、「過激学生待備体制をとれ!」と号令をかける。「ウーッシ」というかけ声と共に<防御網>を顔の位置に下ろし、隊列が、ざっざっざと動く。「かなんナァ..、やってまうんかなぁ。」と考えているうちに、遥か向こうの地下鉄の駅から正門まで人・人・人..大学の中では学生達が猛烈な抗議集会--アジテーション、歌声、シュプレヒコール!--「嬉しいナァ、久々に市街戦かななぁ..」と私は不謹慎にも思った。「コンサートは時間通り行います。封鎖解除は合意されています。帰らないで下さ〜い。」という唱和が続く中、人・人・人が集まり出す。4:30頃、突然お爺さんが飛び出してきた。「ほほう、全斗煥も廬泰愚もこのコンサートだけは弾圧しなかったんだ。何が文民政権じゃぁ、こいつ!」と言うやいなや、さっき私に不遜な態度をとったやつの横ッ面をパ〜ンと張った。見事な張り手!そいつのメットが飛び、及び腰になる。即座に4、5人が来て爺ちゃんの両脇を抱え、道路の向こうまで持って行った。そうするうちに婆さんの一団が車で到着。「どこへ…」の声を完全に無視して、超然と構内に入って行く。後できいたら、爺ちゃんは元・長期囚、婆ちゃんたちは良心囚のオモニたちとか。「年寄りは強い!」まさに強い。官憲も年寄りには手が出せないのだ。感慨に耽っていると、ファンの女の子たちがしたたかに屈託なく前線にやってきて「サインしてください!」−−ユン・ドヒョンたちが「この忙しいときに何を言ってるの?」と笑いながらも次々にサインをしている−−この国は、まだまだ健全だなぁ、私は心底そう思った。

 4:50、やっと門が開き、学生たちの農楽隊を先頭に会場へ。出演者・関係者・客が一斉に会場入りするなんて、メッチャオモロイ。ステージ・照明・音響は前日に仕込んであったので事なきを得、40分遅れてコンサート開始。10組、3時間半のコンサートは、鄭さん、【歌を求める人々(ノッチャッサ)】はじめ、9月の『平和作り』に出ていたアーティストもたくさん出演した。キム・ジョンソ、ハン・ヨンエら超人気歌手、労働者出身の【コッタジ】、その中に混じって私も「ハンマダン」「イムジン河」「橋」を歌った。アリーナと三方の客席を埋め尽くした人々は7,000人。
私が「警察官もちゃんと勉強してほしい」とMCで言ったら、ヤンヤ・ヤンヤの大喝采!いやぁ、7,000人の拍手は凄いものです。その観客が全員、自然に合唱したのが「ソウルからピョンヤンまで」「闘士の歌」「私たちの子どもの国は」。「私たちの子どもの国は」はC兄作詞、藤永 壮(現・某私大教員)作曲で、私にも関わりのある楽曲だ。驚いた。そして、嬉しかった。本当に会場が熱く燃えている。こんな素晴らしい人たちの仲間に入れてもらって、あ〜ホンマに、ミュージシャン冥利に尽きるとはこのことだ。最後がまたカッコいい。元・長期囚と良心囚の家族が全員ステージに上がり、光州から来たオモニが代表でお礼を述べた。たどたどしくも力強く、よく通る声。のし紙を付けない人間のコトバだ。万雷の拍手と口笛、そして、観客全員で「オモニ、元気でなぁ!」と叫んで終わった。

 ささやかな打ち上げ。本当に、飯を食っただけで皆が三々五々帰っていった。一方、私たち<不良中年・老人>は、仁寺洞(インサドン)へ繰り出す。「『橋』がよかった。これからもここへ歌いにきてくれるか。こんなコンサートは早く無くなったほうがいいのだが、俺も生きている限り共に闘う」。そんな言葉をしみじみ語ってくれたのは、統革党事件で17年入っていたというKハラボジ。その横にC兄。──私は泪こそ流さなかったが、彼らのコトバは一つ一つ胸に入ってきて、そのたびにこの二十年間を、しみじみ反芻していた。──もちろん、何回でも来まっせ!また会いましょうね、是非。



11  東大阪市教職員組合機関紙『白ボク』 (No.491, 492 / 2002.2.10 & 3.15)より

 「教育者よ!── Hとの16年間」
 豊中南暑から電話があった。「チョウさんですか?Hの担当刑事Mです…」「また、なんかやったんですか?」「シャブと窃盗ですわ。どうしても先生とこへ電話せえ言うてきかんのです。本来こういうことはしないのですが、あんまりうもんで…。その気がおありでしたら面会に来たってください」。
 Hは、2001年春、3年3ヶ月の刑期を終えて出所したばかり。出所した数分後にさっそく私の携帯電話に連絡してくれたのが4月の中頃だった。出所祝いにささやかな食事をして、Hも目に涙して、ほんとうに嬉しそうだった。「もう二度と刑務所はいやです。これから仕事して、ほんまにまじめに働きます」精桿な顔つきに嘘はなかった。私は間近に控えていた「イカイノ物語」に招待する旨を告げて、別れた。

 Hは現在、27歳の在日韓国人3世。大阪市内の被差別部落周辺地区に生まれ育ち、親はチンピラやくざだ。
 彼と仲良くなったのは、16年前の『大阪市内民族学級合同キヤンプ』だった。今でこそ生野区や西成区などの小・中学校で「民族講師」「民族学級」が教育活動をそれなりに展開しているのだが、16年前はそうではなかった。1948年に朝鮮人学校が閉鎖させられ、神戸では米占領期、唯一の「戒厳令」が出たほど熾烈にに闘われた「4・24阪神教育闘争」−−その名残りが中川小学校やその他の「民族学級」である。(因みに西成区・長橋小学校に代表される民族学級は、70年代解放教育運動の成果として勝ち取られたもの)
 当時の民族講師の孤軍奮闘ぶりは、とうてい語り尽くせるものではない。日本人教師の差別・無視、制度的無保障状態、民族団体(朝鮮総連・韓国民団)の非協力・裏切り…。
 中川小学校だけでなく、大阪市内の有志があつまって、年に一度、子供達の出会いの場を作ろうと、「民族合同キヤンプ」が、毎年開催されていた(今も続いているのだろうが、現在の詳しい事情は知らない)。私も「若き大学院生」のころ、数年参加した。今でいう「ボランテイア」だ。

 K地区から参加したH−−もちろん、日本人教師の教育実践と取り組みの結果、彼は「いやいやながらも」キャンプに参加したのである。絵に描いたようなヤンチャくれが、偶然、私の班入ったのだ。角刈りの、眼光鋭い4年生−−私は自分子供の頃を思い浮かべて微笑ましく彼を見ていた。

 「俺とこなあ、○○あんんで。人間も多いし、親は社長や。車はベンツやし、バクチはやったらあかんけど、たまにやるんや。カブでもポーカーでも、花札でもなんでもできるで。たまに車で送り迎えもしてくれるんや…」。
 Hの自慢話が延々と続く。同班の子供達は「ヘえ、すごいやん」「羨ましい」と相づちを打つ。得意げなHに私は、「H、おまえとこヤクザやろ?」と突っ込んだ。「ちやうわい、A総業いう会社や」「その、総業いうのはヤクザやないケ。恥ずかしがらんでも隠さんでもエエ。リーダー(当時オトナのボランティア指導者は、子供に対してこう自称していた)とこも、オマエとこと似たようなもんや」「ほんまか!」
Hはすっかり安心したようだった。

 キヤンプが終わって、Hから電話が頻繁に来るようになった。その当時私たち夫婦は新婚で、「新居」は朝鮮市場ど真ん中の2DKマンション。Hは、そこによく遊ぴに来た。 「おれ…」電話の向こうで、Hはこう名乗る。普段は日本名(通名)で暮らしている自分、けど、朝鮮人として私たち夫婦とは関係しているのだから…。幼いHは「おれ…」と言って、何度、葛藤しただろう。
 よく新世界や鶴橋へ行った。「まるで親子やなあ」と女房。そう、彼は体が小さい方だし、晩婚であった私にHくらいの子がいても不思議ではない。引っ越しも手伝ってくれた。「ホンマにこんなぎょうさん、本読んだんか?」目をぱちくりしでいたH。「まあ、ええかっこして持ってるだけや(笑)。」
 ひょっとすると、「おれ…」と電話をかけてきて我が家へ遊びに来る時、彼は別世界への冒険をしていたのかも知れない。
 というのも、「高校入試がどこもだめで…」と、Hの元担任・Eさんから相談の電話ががあった時、あの幼くカワイイHの姿が消えていたからだ。

 中学校時代、Hはウチに来なくなった。私も「いつまでも子供じやないんだから」と心配していなかったのだが、いざ進路となって「低学力・非行・家庭環境の劣悪さ」…お定まりの「教育困難状況」が頭をもたげたのだった。
 どこも受からない…どうしようもない…Hは絶望の淵にあった。
 その後、彼は遁走してしまう。親父と一度電話で話をしたが、どうしようもない男だ。この父親、聞くところによると学校にドスもって教師を脅しに行ったらしい。
 「自分のことぐらい、自分でなんとかやりますやろ」−−我が子が行方不明になっているのに、この言いぐさである。ヤクザの、しかも「枝の枝」−−最低の人問ぢや!
 後に知ったのだが、この男の弟、つまりHの叔父の殺害現場を、幼いHは目撃してしまったらしい。そのことが、彼の生育歴に影響を及ぼさなかった訳がない「アホ・ヤクザ」は、「アホ・左真」と同様、<屑>である。唾棄したい衝動に駆られてしまう。

 それから1年ぐらい経った。「英夫(仮名)です。今、奈良でテキ屋やってるんです。たこ焼きに、ピビンバに人ってるミンチ肉入れたら絶対美味いし、売れる思うんですわ。どない作るか、教えてください」−−おかしな電話で、笑ってしまった。でも、「おれ…」から「英夫です」と堂々と名乗ったH。私は嬉しかった。なんでもいい、元気そうに仕事しているのなら。

 ある日突然、Hが3人の「ダチ」と我が家へ駆け込んできた。「今から出頭せなあかんのですけど、出頭したら確実に懲役ですネン。今、事情あって懲役には行けんのです。担当の刑事には今日行くと編して、逃げなアカンのです」私は無条件に賛成した。「何かあったらここに電話せえ」と、知り合いの弁護士の連絡先を教えて…。
 これも後にわかることだが、Hにはこのとき出産を控えた彼女がいた。

 その後も、ちょくちょくHから連絡はあった。元気そうで、電話での話もはずんだ。まあ、ヤクザとして生きていくならそれもしかたないか、でもお前、しょうもない死に方だけはするな、いつでも逃げる覚悟はしとけ、ウエはシタを利用するだけやぞ、俺に頼ったら承知せんぞ…ちょっとエエかっこ言うたかもしれない…。その後、一回だけ会った時に左手の小指が欠損していて、悪い予感はしたのだが。

 98年4月、Hは滋賀県近江八幡署管内で車両窃盗の現行犯で逮捕され、拘留された。シャブの所持と常習、しかも執行猶予期間での逮捕だった。この時もHは、担当刑事にせがんで、私のところに連絡を入れさせている。まあ、しかたないと腹をくくり、弁護士費用も元担任や知り合いで工面して、裁判に臨んだ。嘆願書も提出し、私は情状証人で法廷に立った。

 「もし、彼がまっとうな教育環境に育っていれば、もし差別がなければ…」法廷では、通り一遍の<お涙頂戴>を延々と述べた。女性の裁判長は、よく私たちの言い分を聞いてくれて、逆に検察側の害類の不備や捜査のずさんさを指摘して公判は3回に及んだ。弁護士日く「こんな刑事事件は普通1回で結審言い渡しなんですけど、嘆願昔や惰状証言は今回、確実に効いてますね。かなり見込めますよ。」案の定、執行猶予の取り消し(懲役1年半)と今回分は2年で、計3年半、未決勾留3ケ月分を引いて3年3ヶ月という「異例の軽い量刑」(弁護士談)だった。

 刑務所からの手紙も「特別に担当さんにたのんで書かせて貰った」ほどだから、模範因ぶりが伺えた。「平成13年春、出所します。シャブはもう絶対やりません」と、毎回達筆になって漢字も増えていった彼の手紙。女房と二人で「字、うまなったなあ」と感心しながら出所の日を待っていた。

 豊中南署の刑事によればHの容疑はシャブ常習と車面窃盗だそうだ。あの手紙、アノ涙、あの笑顔は、そして何よりも「刑務所の暮らしはもう懲りました二度と嫌です」と美味そうに飲んだビールは、すべて虚偽だったのか?いやそれとも、人問の、真実の実感や叫ぴ、人と人のつながりを凌駕してしまうほど、麻薬の魅力は深いのか−−私にはわからない。面会場で、アクリルの透明板を隔てて私は怒鳴りあげた。
 「おのれ!人を殺しても、モノ盗んでもええけどな、自分を裏切るヤツにもう救いはないんぢゃ。今度は自分一人で戦え!二度とお前の面なんか見とないわ。お上が刑を下す前に、俺がオンドレのタマとったろか!」書記官が「まあまあ」と止めた。

 Hの「事件」なんて、なんのタタカイにも、運動にもならない、誰も見向きもしない…しかし、私は彼の行く末を見つめる他ないのである。「在日」という狭間に生きる我々の「生の現場」は、果てしなく美しくないのだ。教育者よ!特に「人権教育」や「在日朝鮮人教育」を云々する同志達よ!我々の所行はかくも徴力で、もろいモノなのだということを自覚せよ…。

 Hに「更正」はないだろう。では、どうするのだ?どうしたらいいのだ???
 闇の世界に生き続けるのか?「解放運動」は彼を包摂できるのか…思いは尽きない。
 私は、今回のHの公判には行かなかった。胸がかきむしられる思いしか残らない…。
 ただ、一つの望みは、「女が、次の出所まで待ってくれる、言うてます」という彼の手紙の文言、ぐらいか…。いや、望みと思いたい−−ともかくも、懺悔すべきは、私なのだと肝に銘じている。