田島神社と舎利尊勝寺
JR環状線「寺田町駅」から『生野本通り商店街』を最後まで抜けて、大通り(今里筋)を渡って少し北へ行くと「田島神社」がある。起源は未詳だが、石灯籠などに刻まれた文言によると1684(貞享元)年にこの神社がこの地にあったことが確認でき、1909(明治42)年に「田島神社」と改称され今に至っている。「御大典記念/平成二年」と刻まれた鳥居にびっくり!というのも、歴史用語としては「昭和の御大典」(註1)が定着しているので、明仁の即位式・大嘗祭も「御大典」と言ったのかな、と…。
清楚な境内に足を踏み入れると「殉国の碑」があり、その横の「謝徳之碑」(大正2年)と「眼鏡レンズ発祥之地」碑(平成4年)が目を引く。田島町生まれの石田太次郎という人が、丹波で眼鏡作りの技術を習得して二四歳でこの地に帰り、その後、田島は世界有数の「眼鏡レンズと医療用具レンズ」の生産地になった経緯や、石田翁の徳を称える文言が刻まれている。翁は幼くして右足の自由を失い、農家を継ぐことが出来なかったのでレンズ作りを志したこと、凄まじい努力で眼鏡製作の技術を身につけ、この地に広めたこと等が読み取れる。
田島神社から北へ、「舎利尊勝寺」はこの辺りの地名「舎利寺」の元にもなった、由緒正しく起源の古いお寺。今は、禅宗の一派「黄檗宗」に属する寺院だが、実に興味深い縁起譚が残されている。
約1400年前の用明天皇の時代のこと。この地に住む「生野長者」と呼ばれる人に言葉の不自由な子が生まれた。その子が十三歳の時、四天王寺を建てるために来られていた聖徳太子が「わたしが前世に預けた三つの舎利を返しなさい」(註2)と言うと、口から三つの舎利(註3)が出て、その子は話せるようになった。太子は三つの舎利のうち、一つを法隆寺に、一つを四天王寺に、残った一つを長者に渡された。たいへん喜んだ長者が御堂を建てて、舎利をお奉りしたのが「舎利寺」の起源だと言われている。境内には、江戸中期の儒学者・菅甘谷[すがかんこく]の墓、沢山の個性的な仏像や美しい池もあって、しばし佇んでみたくなる。
【註】
(1)1928(昭和3)年11月10日に京都御所に於いて即位式、14、15日に大嘗祭が行われた。その背後には政治的大弾圧があった。田中伸尚『1928年。「御大典」の裏側で』(第三書館、1993年)参照のこと。
(2)門前の由来説明版には「予が前世にて汝に毘婆尸佛[びばしぶつ]の舎利三顆[しゃりさんか]を預けていたが、今それを返しなさい」とある。毘婆尸仏[佛]は、釈迦以前の理想仏とされる「過去七仏」に属する。
(3)「舎利」は遺骨または遺体を意味するサンスクリット語(梵語)シャリーラに由来する。仏舎利は釈迦の遺骨を意味するので、「舎利」と言うことでそれと区別している。なお、寿司飯の「シャリ」は、サンスクリットの「シャーリ(米)」に由来するという説や、「舎利」に似ているからだという説など、定かではない。




