日々の喜怒哀楽を綴ります。

スラヴォィ・ジジェク『ポストモダンの共産主義』

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『斜めから見る』で衝撃をもらったジジェク先生の新著。副題の「はじめは悲劇として、二度目は笑劇として」に引かれて買った。予想通り、実に挑発的ぢゃ!!

「本書が示すものは、中立的な分析ではなく、徹頭徹尾<偏った>分析である。なぜなら真実とは偏っているもので、人がある立場をとったときにだけ近づける、だからこそ普遍性をもつものだからだ。もちろん、ここでとられる立場とは、コミュニズムである。
テオドール・アドルノは、著書『三つのへーゲル研究』の冒頭で、へーゲルについての典型的な疑問--ベネデット・クローチェの著書のタィトル『へーゲル哲学の何が生きていて、何が死んでいるのか?』が好例--に反論する。アドルノの考えでは、このような疑問を抱くのは過去を裁かんとする傲慢な態度がそこにあるからだ。真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。
これはコミュニズムにもあてはまる。「コミュニズムの思想はいまでも有効か? 政治実践と分析の手法としてまだ使えるか?」というありきたりな質問ではなく、逆の問いを投げかけるべきなのだ----「今日われわれが置かれている苦境は、コミュニズム思想の視点からはどう見えるのか?」と。
そこにこそ古きものと新しきものの弁証法がある。現代のありようをつかもうとして、「ポストモダン社会」「リスク社会」「情報化社会」「脱工業化社会」等々、次から次へと新語をひねり出す人ほど、ほんとうに新しいことの輪郭を見逃してしまいがちなものだ。新しきものの真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠の」レンズを通して世界を見ることだ。実際コミュニズムが「永遠の」思想であるのならば、それはへーゲル哲学におけるく〈具体的普遍性〉として機能する。どこにでもあてはまる抽象的で普遍的な特質というのではなく、新しい歴史状況がめぐりくる、ことにモデルチェンジされるべきだという意味で、永遠なのである。」(「まえがき」より)