日々の喜怒哀楽を綴ります。

吠える(5)

「マルセ太郎をご存じか?ならば、中々の演芸通である」と色川武大は言った。同じことを、読者に問うてみよう…「知ってるアナタは幸せです。知らないアナタは不幸です。」と筆者は言いたい。そして、本稿は「その不幸に留まってはならない」という話しに他ならない。マルセ太郎を知ることは、現代史を対象化することに繋がるのである。加えて、百冊の「良書・名著」を読むより彼の芸を一時間観た方がためになると、筆者は断言して憚らない。
先日、東京は両国の「シアター・カイ」で『That's芸人魂~笑ってほしい怖い人』と題された「マルセ太郎十三回忌追善興行」が行われた。生前、マルセ作・演出の芝居を演じていた「マルセ・カンパニー」を引き継ぐ「コメディー・オン・ザ・ボード」の面々(筆者もそのメンバーの一人)が、彼の半生を傑作喜劇に仕立て上げ、6日間8ステージにそれぞれゲストが登場するという趣向であった。初日に登場した永六輔氏は「森繁久弥の追悼公演なんてやらないでしょ。でもマルセは、あちこちで、何回も追悼公演がなされています。彼の人柄と芸の秘密は、そこから見えてくると思います」と語った。本人は謙遜して多くを語らなかったが、一介の浅草芸人だったマルセ太郎を見いだし、その至芸を開花させたのは誰あろう、永六輔その人なのである。
一九三三年、大阪・猪飼野で在日朝鮮人二世としてマルセ太郎は誕生した。この世代に共通する「子どもの戦争体験と戦後民主主義の洗礼」を総身に浴びた彼は、向上心に燃えて高津高校へ進学したが、卒業後ヒロポン中毒に陥る。叔父の尽力で中毒を克服し、東京に出て新劇役者を目指すも、ボードビリアンと「芸」の世界に目覚め、日劇ミュージックホールなどに出演するようになる。実は、日本の演芸場で「パントマイム」を演じたのは、マルセが嚆矢で、芸名の「マルセ」は「マルセル・マルソー」に由来する。その後、トリオ漫才や漫談家として浅草の寄席に出演したり、全国各地のキャバレー回りをして糊口を凌いでいた。その間、猿や鳥の形態模写、でたらめ外国語の国会中継、国歌よもやま話、古典芸能おもしろ解説、浅草物語、中国・朝鮮・日本の踊りに見る比較文化論、憬れの飛田新地、等々、身ぶりと話芸を駆使した、マルセ太郎独特のネタを造り出していった。それでも、売れなかった…。ある日、何のネタも準備していなかったので、その日に観た映画『瀬戸内野球少年団』と『泥の河』を漫談風に解説してみせた。それが、後々に「スクリーンのない映画館」へと発展するのである。映画を丸ごと一本、話芸とマイムで再現するこの芸は「映画以上の感動」を呼び、マルセ太郎の代名詞となった。
このような芸歴の中から、マルセ太郎は自分の世界観を端的に表現する術を体得していった。言い換えるならば「マルセ哲学」を語録として残したのである。「人間を徹底的に観察しその典型を表現すれば、自ずと笑いになる」「笑いを確実に置いていくと、最後に感動が生まれる」「記憶は弱者にあり」「Be動詞の精神とは、己の存在を確認することである。ならば、相手の存在も尊重できる」「きれいな政治家などいない。まだバレてないだけ」「笑い…その根底に人間への愛がなければ、ほんとうの笑いというものは生まれてこない」「才能、それは人格だ」etc. etc. マルセは、陳腐な笑いを徹頭徹尾否定した。彼にとって「笑い」とは、諧謔と批判精神であり、何よりも人間解放への戦略、自尊概念に至る戦術なのである。筆者は密かに「マルセ太郎は日本のベルグソンである」と称している。「3・11」以降を生きる私たちは、ややもすれば、絶望と悲観に苛まれる日々を強要されざるを得ない。そんな時こそ、マルセ太郎に触れて欲しい。逝ってしまった彼が残したうち、入手可能なものを挙げておく。不幸に留まるや否や、それはアナタしだい…。
・マルセ太郎『芸人魂』『奇病の人』(講談社)
・森 正『マルセ太郎・記憶は弱者にあり』(明石書店)
・山田洋次、他『まるまる一冊マルセ太郎』(早川書房)
・劇団態変『イマージュ』vol.21(2001・春)●対談:マルセ太郎×金満里
・ビデオ『スクリーンのない映画館』[泥の河][生きる][息子](発売元:キメラ)
※YouTubeで検索すると、マルセの貴重動画が数本、出てきます。
『人民新聞』No.1493より)