日々の喜怒哀楽を綴ります。

ガザ 緊急コール

Martin Lejeune
Mondoweiss / 2014年8月2日

7月31日 ガザ市にて
私は7月22日からガザ地区に滞在しているが、それでもまだ、ここで起きていることに自分の目を信じることができない。人生で最悪の日々を経験している。ガザのすべての人々が、彼らの人生最悪の日々を経験している。ガザに対するこのような大量の攻撃は前例がない。これらの言葉の背後に、人間の悲劇が無数にある。人道的破局は、その頂点に達している。

ガザにおける戦争は、民間人に対するものだ。そのように言っているのは私だけではない。だが、また、ガザの人々も、私が話を聞いたジャーナリストたち全員も――過去10年間に起きたすべての戦争(アフガニスタン、イラク、リビヤ、シリア・・・等々)をカヴァーしてきた者たちだ――同じ意見だ。ここで起きていることは、質的に、まったく前例のないものだ。

ロケットがいたるところに撃ち込まれる。家族がふつうに居住している住宅にも、人々が礼拝しているモスクにも。7月30日の日が暮れて間もない頃、F16が通りを挟んで私たちの家の向かいにある集合住宅の建物を爆撃した。ほんの50メートル先の家にロケットが撃ち込まれたのは、私たちがちょうどバルコニーに座っていたときだった。その数秒前、ロバがヒステリックに叫ぶのが聞こえた。まるで攻撃を予見して、私たちに警告するかのように。

飛んできた建物の破片が私たちの家の壁に当たった。寸でのところで私たちにも当たるところだった。気がつくと私たちは砂埃の雲の中に座っていた。眼鏡とラップトップが砂塵で覆われる。歯のあいだで砂が砕ける。30分ほどたってようやく、砂埃が落ち着く。通りでついさっきまで話をしていた父親の姿がようやく見えてくる。父親は、2発目が続いた場合に備え身を護るものを探して、子どもたちと掘削機の陰に隠れている。掘削機はとある建設会社のもので、私たちの家の前の駐車場に置かれている。

私はすぐさま瓦礫と化した爆撃された建物に駆けつけ、負傷者を見つける。これまでに何度も、この家族が通りを歩いているのを目にしていた。携帯電話で、救急車が到着し、負傷者を病院に搬送する様子を記録する。通りには、石や、破片が散乱し、倒れた電柱が横たわっていた。

私がガザにやって来て以来、白昼、澄み切った空のもと、視界を遮るものなど何もない状況で、数えきれないくらい民間人や民間施設が標的にされ爆撃されている。その中には、何百人もの難民が避難していたベイト・ハヌーンの国連が運営する女の子のための小学校もある。国連は、イスラエル軍の総司令部に学校のGPSの座標を送っていたにもかかわらず。正確な死者の数を覚えていない。インターネットで調べることもできない。加えて、ビーチ難民キャンプの公園も攻撃された。公園の前で遊んでいた8人の子どもたちが亡くなった。7月30日の午後遅く、ガザ地区北部の市場が爆撃され、17名が殺され、買い物をしていたパレスチナ人160名が負傷した。民間人に対する集団虐殺の一覧表は際限なく続く。7月8日以来、1000人もの民間人が殺されているのだから。

私にはイスラエル軍の動機が理解できない。なぜ、彼らは、故意に民間人を標的にし、人が大勢集まっているところを爆撃するのだろうか。高解像度のイメージを送ってくれる無人偵察機を通して、標的についての正確な情報が手に入るというのに。なぜ戦闘機のパイロットたちは意図的に女性や子どもたちを殺しているのだろうか?これら空の支配者たちは生と死を決めるいかなる倫理的基準に従っているのだろうか?

彼らは今日までに開発された中で最先端のジェット戦闘機に座り、標的に爆撃の照準を合わせる。兵士たちが戦争で兵士を殺さねばならないということは、国際法で合法とされているが、民間人――向かいの住宅の家族や、公園や国連の難民のための学校にいる子どもたちのような――を意図的に標的にすることは、戦争を遂行するためのいかなる条約のもとでも合法とはされていない。

ガザの人々は自問する。ドイツその他の西欧の国々のトップは、なぜ、これら国際的な協定の侵犯を強く非難しないのか。これらはイスラエル軍が日常的に犯している戦争犯罪である。

病院や上水施設、ガザ地区唯一の発電所さえ、すでに攻撃された。私たちのいる地区、3週間前まではインフラが機能していたので「ビバリーヒルズ」の名で知られていたガザ市の中央部では、もはや誰も、水道水を手に入れることはできない。街角にある店でプラスティックのボトルに入った水を買い、それで、手や体を洗うのだ。

発電所が爆撃された7月29日の夜以来、電気もなくなり、インターネットもできなくなった。有線の通信も通じない。携帯電話が、まだ機能している唯一のコミュニケーション手段だが、長時間使うとあまりに高い。私はアル=デイラホテルで記事を書き、送っているが、このホテルには専用の自家発電機があり、また、ここに投宿しているフランスの通信社がWi-Fiのネットワークを持っているのだ。

ガザ地区に、もうパンはない。誰ももう、パンを買うことができない。私たちは、私の大家であるマーヘル氏の奥さんが焼いてくれたパンを食べている。奥さんは、私たちの家の中庭にある自家製の窯で、炭で火を熾してパンを焼く。私たちはパンにオリーブオイルと、タイムと胡麻と塩で作ったザアタルのペーストをつけて食べる。私たちは来る日も来る日も、これを食べている。

だが、仮にパンが買えたとしても、私たちにはパンを買うお金がない。戦争が始まった当初より、ATMに現金はない。銀行が閉鎖され、財務省が完全に破壊されてしまったからだ。だから、機能しているのはクレジット・カードだ。私たちは街角の店で小麦あるいは油を買うとき、あとで支払うことにしてツケで買うのだ。いま、誰もがみな、そうしている。

ガザ地区にもはや公共生活はない。すべての公共機関やオフィスは閉鎖されている。店やレストランもほぼすべてしまっている。ガザの人々は、絶対的に必要な場合しか外出しない。浜辺も公園も人っこひとりいない。浜辺でサッカーをして遊んでいた最後の4人の子どもたちは、イスラエルのロケット弾で殺されてしまった。近くには、ハマースの戦闘員もロケットの発射場所もなかったと、目撃者は一貫して報告している。

私は、7月29日に爆撃で大破したアル=アミーン・モスクの角にある、2階建ての建物に滞在している。戦争前、この建物に暮らしていたのは10人。今や、70人が、二つのフラットを共有している。私の大家は、完全に破壊されたガザ地区北部から60人の難民を受け入れている。

男たちは玄関やホールで寝なければならない。女性と子供がフラットで寝る。こんな狭い空間で、かくも大勢の見知らぬ者たちと一緒に暮らし眠るのは、容易なことではない。プライヴァシーにかかわるいかなる概念も存在しない。3週間半に及ぶ絶え間ない爆撃――私はそのうちの1週間半を経験しただけだが――のあとで、神経はつねに緊張を強いられている。

しかし、この家に居住する70名の住民たちは、静かに、そして思慮深くふるまう。彼らは自らの持てるものすべてを分かち合う。焼いたパン、最後の煙草、携帯電話のバッテリー、あるいは身ぎれいにしておくための石鹸。きのう、私はこの地区にある幼稚園を訪ねた。一部屋に80人もの人々が眠っている。

パレスチナ人はレバノン人のように聡く、イラク人のように知的で、アルジェリア人のように強い戦士で、シリア人のように歓待の精神に富んでいる。おそらくは、ガザの人々に諦めることなく、これらの困難な状況に取り組むことを可能にしているのは、これらたくさんのポジテヴィヴな性格なのだろう。

空から、海から、陸から3週間半に及ぶ爆撃にもかかわらず、子どもたちは依然、通りで遊び、女性たちは今もなお、パンを焼きながら歌を口ずさみ、男たちはなおも抵抗を続けている。私の大家のマーヘルはこう説明する。「生き、そして闘うという私たちの意志は、ロケットによっても手榴弾によっても破壊されはしない。」

[翻訳:岡 真理]