日々の喜怒哀楽を綴ります。

『蛇行社通信』より--

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■『蛇行社通信』(吉田智弥さん個人誌)いただきました。
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(2) 「歌う(訴う)」裏声を聴く
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2月6日、先月に続いて、学園前駅に近い「つづきの村」から案内されて、趙愽さんの「歌うキネマ」を観た。無農薬野菜などを扱う八百屋さんの喫茶部とも呼ぶべき会場は、満員であった。この日の「キネマ」の題名は「砂の器」だった。
ずっと以前に、マルセ太郎さんの「スクリーンのない映画館」で「泥の河」(小栗康平監督)のビデオを観たことがあった。宮本輝の原作も良かったが、映画も高く評価されて多くの賞を受けた。マルセさんの言葉遣いのやさしさにも圧倒された。
趙さんの「歌うキネマ」を観るのはこの日が初めてである。が、すぐに引き込まれた。始まってすぐに、語りにかぶせられたピアノの演奏と、照明がたいへん効果的であることが身体に直に感じられた。素人目にも、これは事前の打ち合わせと練習にかなりの時間がかけられているな、ということを覗わせる演出であった。
従来の言い方では「一人芝居」のジャンルに入るのかもしれないが、過去に上映された「映画」の中身を、演者が、声帯模写、形態模写をまじえながら、筋書きを語り、ドラマが意図した全容を伝える、という新しい表現の試みである。
「砂の器」に関しては、松本清張の原作を読んでいるし、野村芳太郎監督の映画も観た。ずいぶん昔のことなので、いつ読んだか、いつ観たかも忘れてしまったが。
なので、個々の場面はほとんど覚えていない。主人公の刑事が丹波哲郎であることも、教えられて初めて、「ああそうだったか」と。記憶を蘇らせるのに苦労したほどである。あまり生活感のない俳優なので、もともと身近な存在ではなかったが。
その丹波哲郎をはじめ、主要な出演者である、佐分利信、渥美清、緒形拳、加藤嘉などが、趙さんの巧みな声色で、だんだんに役柄のイメージが具体化して鮮明に感じられた。見事であった。ミュージシャンというのは耳の良い人が多いから、モノマネが上手なのは不思議でないが、役者らの語り口の癖が巧みに再現されて、ある時には、筋書きに関係なく思わず(声に出さずに)笑ってしまったりもした。
実際の映画の上映時間はむろん覚えていないが、今回の「歌うキネマ」は1時間半ほどであった。観ながら、聴きながら、「これは大変だな」と感じたのは、映画の中で何人もの俳優が演じた役柄を一人で演じるという、その多様な表現力もさることながら、それと呼吸を合わせたピアノの入り方、場面転換の繋ぎ方の工夫に舌を巻いた。
 いくつかの山場では、趙さんはそれこそ「役になりきる」ような演技をする。ところがそのすぐ後に、ストーリーや役者についてのくだけた説明を付け加える。観客の反応なども見ながら、作品の深層底流ともいうべき「ハンセン病」についての(歴史的・科学的な)解説までが入る。原作の中の説明は十分ではないから、脚本家たち(橋本忍、山田洋次)も苦労しただろうが、趙さんも苦労するのだ。
散文的な話をする時の趙さんは、<素>の趙さんである。大学か予備校で講義をする時と変わらない。その寸前まで憑依(ひょうい→役柄の魂が乗りうつった)状態にも見える表情だった同じ人が、突然、<素>に戻って語りはじめる。その後にまた「役」に戻る。多少演劇に関わった者としては「これは大変だな」と思わざるをえない。
一度でも「歌うキネマ」を観た人は、以後の映画の見方が変わるのではないか。という意味では、これは新しい映画批評のスタイルでもある、と言えるだろう。