日々の喜怒哀楽を綴ります。

10月23日朝に詠む

ファイル 3592-1.jpgファイル 3592-2.jpg

☆民主主義 選挙で斃死 涙雨☆

要するに、何も変わっていないということ。社民党は「沖縄社民党」に鞍替えした方がいいし、共産党の「激減」は野党共闘のなんたるかを徹底して総括すべき事を物語っている。結局、小池・前原の策略が功を奏したじゃないか。立憲民主が野党第一党…何も響かない、なんたる軽さよ。辻元清美のほくそ笑みが、闇に不気味なだけだ。言わずもがな、「あらゆる歴史は階級闘争の歴史である」(マルクス)、つまり、選挙に勝つ為の努力が足りなかったのではなく、日々の階級闘争を放棄し、連合などと言う御用組合をのさばらし、沖縄・福島の「犠牲のシステム」(高橋哲哉)にのっかてきた罰(バチ)が「選挙に負けた」という結果なのである。
服部良一さん、その陣営(つまり、俺の同志・仲間)の皆さん!俺は「無理だ、無駄だ。選挙に出ること自体が誤りだ」と何度言ったことか。非国民の俺でさえ判ることが、ニホンコクミンのあなた達には、何時になったら判るのだろうか?あなた方に、杉並で立候補した中核派を笑う資格はないぞ。大阪の状況は「選挙」云々ではない--そこまで、我々大阪の左翼が貶められ、弱体化し、不甲斐ない存在に成り下がったことを、何故先ず総括しないのだ?
さて、科学とは一種の予見であって、選挙に勝つか勝てないか、科学的分析に基づいてある程度の予見と展望の元に行動が決定されることは言うまでもない。そこに「情熱」や「正義」や「良心」、はたまた、希望的観測など無用で、むしろ有害だ。ただし「負ける覚悟で出る」という啓蒙戦略もあり。しかし、今回、各地の野党統一候補は「必勝」でなければならなかったはずだろう。で、この為体だ。己が寄って立つ情勢分析も出来てなかった、つまり「非科学的であった」ということだ。俺が、立憲民主の「熱気」はシールズやファシズム政党のそれと同一だと言うのは、この三者に共通する「主観主義」=反科学性ゆえである。ましてや、社民党が沖縄以外で勝利するなど、どこをどう「主観的に」分析してもありうるわけがないではないか。村山政権の総括もせず、「自さ社」連立などと言う無様を演じきった者どもがファシズムと闘う??冗談も休み休み言ってほしい。
「選挙に出ない」という闘い方もある訳で、俺らのような「選挙権を剥奪された」者たちは、ずっとそう闘わざるを得なかったし、事実、そうしてきた。「一票か社会を変える」というブルジョア原則(=幻想)にズブズブに陥った報いがファシズムと戦争への道だった…ドイツの経験を持ち出すまでもなく、いま、この国で起こっていることは、まさにそれじゃないか。
今日はここまで…共産批判については、またの機会に。
さぁ、今日から(も)地獄を生きようかね(笑)。殺されてたまるか!!

【島 和博さんの投稿】
この国の「選挙」では必然的に貧乏人が自民・公明・維新・希望に投票する(投票させる)。やつらを自分たちの「代表」として認めてしまう(認めさせる)。それが「選挙」という(イデオロギー)装置の機能である。このことはとっくの昔にマルクスが指摘していたことだ。「選挙」はいわば「民意」を捏造する装置なのだ。だから、このような「選挙」によって貧乏人の「民意」が表出されることは決してありえない。もしもそういうことが起きるとすれば、それは「選挙」という装置に終止符を打つための「最後の選挙」においてのみだろう。
歴史上、「選挙」が到達した最高の地点はおそらくチリのアジェンデ「社会主義」政権だと思うのだが、しかし、この社会主義へと到達した「選挙」を可能にしたのは労働と生活の現場における「民衆の闘い」であったのであり、「選挙」はその「最後の」総仕上げ(確認作業)に過ぎなかった(これはグスマンの「チリの闘い」の第三部を観るとよくわかる)。この闘いの中でこそ民衆(貧乏人)の「本当の」民意が形成されるのであって、このような闘い抜きにアプリオリに民意などというものがあるのではない。
だから「民衆の闘い」が存在しない(組織化されていない)この国では「選挙」によって「民意」がやすやすと捏造されてしまうのだ(もちろんこの国でも沖縄のように苦しい闘いの結果としての民意が選挙の結果に現れている「例外」もあるが)。メディアや「風」によって捏造される「民意」に何の意味があるというのだ。だから、枝野新党(CDP)の「躍進」に最後の「希望」を見出している(らしい)自称「リベラル」の諸君もまた決定的に誤っている。CDPもまた闘い抜きの「民意」をアテにしているのであり、しかし、そんなものは虚妄にすぎない。「民衆の闘い」(の組織化)抜きの「民意」とは、ジジェク風にいえば、カフェイン抜きのコーヒーやアルコール抜きのビールと同様に、浮遊する「ミドル」のPC的な妄想・幻想にすぎない。左翼が目指すべきは常に民衆の闘いの組織化であり、それを通じての「本当の」民意(階級意識)の形成である。そして、そのような「本当の」民意に支えられた「最後の選挙」をこそ目指すべきなのだ。
このような宛先不明のメッセージ(戯言)に何の意味があるのだと徒労感を覚えつつも、それほど長くはないはずの残りの人生、僕もまた「地獄を生き」る覚悟はできているし、誰に遠慮はいるものか、「教条的な」罵詈雑言を吐き続けようと思っている。