日々の喜怒哀楽を綴ります。

故・大道寺将司さんへ

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34年目の懺悔と「謝罪」
--『キタコブシ』終刊に寄せて--
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1983年4月、私は大学院修士課程を終えて大阪の「社会主義理論政策センター」で事務のバイト職に就いた。時給800円で、月に12、3万円は稼げただろうか。当時としては、まずまずの給料で、就職浪人にとっては有り難い職場だった。同センターは、社会党大阪府本部副委員長の荒木傳さん(当時)が事務局長で、事務局次長が、私の大先輩である小寺山康雄さんだった。小寺山さんは60年安保闘争の時期に兵庫県学連委員長で、後の共産党分裂(8回大会)で除名、離党した後に統一社会主義同盟(統社同)議長の任にあった人である。同センターは、『社会主義と労働運動』という月刊誌を発行し、月に数回の学習会やセミナーを主催していた。同時に、幾つかの専門部会があって「教育問題研究会」「朝鮮問題研究会」「公害問題研究会」「労働問題研究会」などがあった。つまり、総評・社会党ブロックに依拠して、学者・研究者と労働組合や市民運動が結合する理論と「場」を提供していたのだ。
私は大学院の時代から「朝鮮問題研究会」に出入りし、映像作家の辛基秀さんの仕事を手伝うようになった縁で、センターのバイトにありつけたのだった。いいだもも、沖浦和光、中岡哲郎、鶴見俊輔、小田実、竹内良知、瀬戸内寂聴など、錚々たる学者・文化人名簿は300人を越え、そして、官公労各単組や全金、運輸一般など、各組合が「組合員数」に応じて機関誌を10冊、 50冊というふうに購読し、毎月の発行部数は5,000以上だったと記憶している。
折しも、松下幸之助、堺屋太一らが立ち上げた「(財)大阪21世紀協会」なる官民一体の団体が、バブル経済の波に乗って、恥ずかしげもなく堂々と登場してきた。これは、一言でいうならば「21世紀に至るまでの十数年間、大イベントや博覧会などを目白押しに主催しながら、学校・企業・地域社会の隅々にまで関西財界の利潤追求戦略を浸透せしめる」ことを目的としたものだった。御堂筋パレード、千里ニュータウンフェスティバル、天神祭ギャル神輿、天王寺博覧会、等々、すべてに同協会の息がかかっていた。そして、コヤツ等が「大阪城築城400年祭」と銘打った巨大フェスティバルを画策したのだ。
「社会主義理論政策センター・朝鮮問題研究会(朝問研)」は、いち早くこの「400年祭」に異議を唱えた。豊臣秀吉を顕彰するということは彼の朝鮮侵略(文禄・慶長の役/朝鮮・韓国では、壬辰倭乱)を不問にし、ひいては1910年から36年間続いた日帝の朝鮮植民地支配と日本の戦後責任を一切無視すると言うことに他ならないのだ、と。私たちは反論と同時に「対抗イベント」を企画した。大阪では1980年の「光州民衆抗争」以降、「光州連帯」の連続行動が継続され、1983年の主要課題に「大阪城築城400年祭粉砕」が掲げられた。また、総評大阪地本内に組織された「大阪日朝共闘」という大衆団体が「朝鮮の自主的・平和的統一支持」を掲げて活動いていたこともあって、我が朝問研の主張は広く認知・支持された。かくして、『耳塚民衆法要』実行委員会が、数百人規模の賛同人を得て結成され、同年9月18日、京都・豊国神社前にある『耳塚』の周囲に千人以上の人々が集って、慰霊と法要の儀式・行事が営まれた。奇しくも、京都仏教会の全面支援を得て、音響装置や清水寺の高僧による読経など、すべて無料の提供を受けた。
その準備過程で、私は大罪を犯した。実行委員会の呼び掛け人と『耳塚民衆法要』の賛同人を募集するDMは、おそらく千通を超えて送付したと記憶している。そして、約250人の方々が寄付(賛同)金とともに承諾の返事をくださった。その中に、私は、当方の名簿にない名前「大道寺将司」と署名された郵便振込用紙を見つけた。事務局会議で「どうします?爆弾魔が寄付金を送ってきてますよ。公表しますか?」と問うたのは私だった。そして「無視しましょう」と提案したのも私だった。会議では「趙君の判断に一任する」となった。今、手元に資料が見つからないので正確な数字は分からないが、数人いた「匿名希望」の中に、私は「大道寺将司」の名前と寄付金を融けこませてしまった…。
私が神戸外大に入学したのは、三菱重工業爆破事件が起こった翌年だった。言わずもがな、ゲバルト学生へのアンチ意識、安田講堂の攻防や連合赤軍事件へのアレルギーは、当時の私の精神の隅々と骨の髄にまで沁みていた。今思うと、それは己の「逃避」と軌を一にする心情だったのだろう。私は、朝鮮人である自己を嫌い、出自を隠し、120%の日本人になることで「差別と抑圧」から逃れようとしていた。誰に教わった訳でもなく、18年の人生でそのように立ち振る舞って来たのだった。故に「日本人の常識」を日本人以上に吸い込み、内面化させていたのも当然である。そんな私だったが、学費値上げ阻止闘争を切っ掛けに学生運動にのめり込み、21歳で本名を取り戻した。しかし「過激派」への憎悪と排除意識は「常識」のままだった。だからこそ「大道寺将司」の名を消し、それでも、申し訳ないという後ろめたさから「匿名希望」に滑り込ませたのだ。
太田昌国さんとの出合は、おそらく80年代後半だったろう。私が関西大学と河合塾で講師稼業を始めたのが1986年で、「コスモ」という名称の高校中退生課程を新設したのが1988年、そこに小田原紀男さんや阿蘇敏文さん(どちらも故人)を招聘したことが切っ掛けで、御両人と親交の深かった太田さんとの邂逅があったと記憶している。太田さんのお名前は随分以前から存じ上げていたし『世界革命情報』などの文献にも、私は研究者として馴染んでいたが、大道寺将司の叔父であることを知って、戦慄にも似た衝撃を受けたことが忘れられない。それ以降、遅れ馳せながら、松下竜一『狼煙を見よ』(1987年刊)なども手にとって読むようになった次第である。
『キタコブシ』の読者になったのは2010年だ。自己の大罪について、将司さんの目に触れる形で文章にして、きちんと総括せねばと思いながら…、逡巡しながら、筆をとることができずに今日に至ってしまった。つまり私は、大道寺将司に二重の罪を負ったのである。一つ、その意志と名前と抹消してしまったこと。二つ、そのことを直接本人に詫びて謝罪しなかったこと--。これは、幾重に謝っても、何度頭を下げても、赦されるべきものではない。私は、己の生ある限り死に至るまで、この罪を背負い、罰を受け続ける。

コメント一覧

E.P Mail 2017年11月08日22時30分 編集・削除

粛々と読ませて頂きました。『朝問研』のくだりは知りませんでした。あの頃は私も同じ思いでいて、「大罪」なんていうパギも私も同罪でしょうか?
今季の雑誌『情況』に太田昌国さんが、大道寺さんとの今までについてのインタビュウーが掲載されています。
コピーしてお送りしますね。

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