日々の喜怒哀楽を綴ります。

「ルカーチ」再読

ファイル 932-1.jpg

哲学の歴史は芸術や文学の歴史と同じくけっして--ブルジョア史家の考えるように--たんに哲学的理念の歴史、いわんや哲学的人物の歴史といったものではない。哲学にとってもろもろの問題およびその解決方向は生席力の発展によって、社会的発展、階級闘争の展開によってたてられる。そのときどきの哲学を決定する基本線は、この原初的動力の認識に基づかないでは見出されえない。哲学の問題連関を哲学のいわゆる内在的な発展からして設定し解決しようという試みがなされる場合には、必ずやもっともたいせつな連関の観念論的歪曲ということがおこる。歴史家のもとに必要な知識が、客観性をめざそうとする主観的な善き意志が存在するような場合ですらそうである。いわゆる精神科学的なみかたがこのような見地に比べてなんら進歩でなくて、逆行の一歩であることは白明である。すなわちそこでは歪曲的なイデオロギー的出発点にはかわりがなくて、ただそれがいっそう朦朧としており、観念諭的歪曲がいっそうはなはだしいだけのことである。ディルタイとかれの学派を、ヘーゲル派の歴史記述たとえばエルトマンと比べてみよ。(ルカーチ『理性の破壊』より)
そう、そのとおり!<脳科学>が真理の体現者であるかのようなデマを流布するデマゴーグ、茂木や養老を笑え--。

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://fanto.org/diary-new/entry-tb.cgi/932

トラックバック一覧