日々の喜怒哀楽を綴ります。

大江神社と「長町」

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愛染さんの西側に「大江神社」がある。神社の西側(愛染坂の下方)は、崖のように落ち込んでいて通天閣が見える。「大江」とは古代・難波津の入江が港の名残で、境内には「夕日丘」の歌碑がある。

「契りあれば なにわのさとに やどりきて
波の入り日を 拝みつるかな」藤原家隆

この歌からこの辺りの地名「夕陽丘」がついたとか。本殿の右側には、狛犬ならぬ「狛虎」がユーモラスな姿で鎮座していて、何時の頃からか「阪神タイガース」の優勝を祈願する人々が、球団旗やメガホン、絵馬などを奉納するようになった。
神社西側の石段の上に「日本橋五丁目・寛政五年六月」と刻まれた石灯籠があり、下の鳥居には「長町六丁目・寛政五年五月」とある。江戸時代初期に「長町」は一丁目から九丁目まであったが、しだいに「無宿者」や袖乞・貧民がその南部に集中し、後に「搗米、酒造、油絞、馬方、駕籠かき、仲仕」など労働者の街になる。北部は商売地域として発展したので、1792(寛政4)年に、元の「長町一~五丁目」を「日本橋通り一~五丁目」、南部は「長町六~九丁目」と分離し、「木賃宿は六~九丁目に限る」という措置がとられた。この政策が、明治に入って「釜ヶ崎」の形成に繋がっていく。町名変更になった翌年に建てられた灯籠と鳥居を見ると、何とも意味ありげで興味が尽きない。

源ヶ橋温泉

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「寺田町駅」の北口と南口は、全く異なる顔を持っている。南口は天王寺区で、大阪教育大学(元・天王寺分校、現・第二部)や古い町並みやが残っている閑静な住宅地。南口にある「寺田町駅前南商店街」は、元々「黄金地商店街」という戦前からの古い商店街で、『黄金湯』という銭湯がその名を今に留めている。一方、北口は西側が天王寺区、東側が生野区の南端。猫間川【註1】に架けられていた「源ヶ橋【註2】」の名を残す交差点から東に『生野本通り商店街』が延びていて、途中で名称を変えながら、約一六〇〇メートルの長いアーケードが続く活気溢れる街。『源ヶ橋温泉』は、商店街に入って一五〇メートルほどの処、疎開道路の手前を右(南)に折れた所にある。この銭湯は1935(昭和10)年に建てられた「文化庁認定有形文化財」で、「この建造物は貴重な国民的財産です」と刻まれたプレートが掲げられている。おそらく日本で唯一の「文化財銭湯」ではないか。そればかりではなく、全国各地から取り寄せた「漢方・ハーブの湯」、また石川県小松市のオパール原石を用いた「オパール湯」もあって、実にありがたい気分に浸れるのだ。

【註】
(1)阿倍野区高松に端を発し、源ヶ橋を通って生野区から東成区・城東区と環状線に沿って流れ、森之宮の砲兵工廠の西北端で平野川に合流していた長さ4.5キロメートル、川幅約10メートルの自然河川。戦前から暗渠化の工事が続けられて1957(昭和32)年に完全に消失したが、川の痕跡や関連する石碑が各地に残っている。百済川(平野川の古名)に対して高麗川[こまがわ]と呼ばれていたのが、訛って猫間川になったといわれている。
(2)文化8(1811)年3月に出来た橋で、次のような逸話が残されている。猫間川の渡し守で源兵衛という悪党がいて、通行人を殺めては金品を強奪していた。ある日、いつものように一人の旅人の身ぐるみを剥いで殺してしまうのだが、それは長年行方を捜していた我が子だった。さすがの源兵衛も自分の罪の深さを悔やみ、出家して有源という僧侶なり、罪滅ぼしのために、それまでに掠めて貯めた銭で川に橋を架けた。

ひたすら

原稿書き…ぜいぜい。

暑…

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暑気払いに「寺田町駅」近くの大和温泉へ入る。水がいい!なるほど「西峯式水風呂健康法本部」とある…どんな健康法だろう、肖りたい(笑)。風呂上がり、久々に宇治金時を食す。六八〇円也。涼!

「あーす食堂」初ライヴ

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京橋から京阪で出町柳へ。今出川通りを東へ歩くこと十分、暑い…思文閣のビルを右手に見て、百万遍の交差点を越えると、知恩寺界隈。古書店に挟まれて、あーす食堂「閑楽庵」が佇む。思えば京都は古書の街だ。3時開始前、早々からお客さんが集まりだし、フルハウスに!いやぁ、嬉しいね~。
【演奏曲目:1教訓Ⅰ、2老人革命の歌、3橋、4ヘライデ、5死んだ男の残したものは、6ヤクソク、7不審がいっぱい、8百年節、9尚州田植え歌、10珍島アリラン、11旌善アリラン、12ヨイトマケの唄、13グーチョキパーの歌<アンコール>イムジン河、インターナショナル】
終演後、まだ明るい中を、北白川「彦」にて密会…いやぁ、嬉しいね~。

『100年目のヤクソク』CD評

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藤田正さんが、雑誌『部落解放』八月号にCD評を書いてくれました。
おおきに!販売促進に繋がりますように(笑)!!

田島神社と舎利尊勝寺

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JR環状線「寺田町駅」から『生野本通り商店街』を最後まで抜けて、大通り(今里筋)を渡って少し北へ行くと「田島神社」がある。起源は未詳だが、石灯籠などに刻まれた文言によると1684(貞享元)年にこの神社がこの地にあったことが確認でき、1909(明治42)年に「田島神社」と改称され今に至っている。「御大典記念/平成二年」と刻まれた鳥居にびっくり!というのも、歴史用語としては「昭和の御大典」(註1)が定着しているので、明仁の即位式・大嘗祭も「御大典」と言ったのかな、と…。
清楚な境内に足を踏み入れると「殉国の碑」があり、その横の「謝徳之碑」(大正2年)と「眼鏡レンズ発祥之地」碑(平成4年)が目を引く。田島町生まれの石田太次郎という人が、丹波で眼鏡作りの技術を習得して二四歳でこの地に帰り、その後、田島は世界有数の「眼鏡レンズと医療用具レンズ」の生産地になった経緯や、石田翁の徳を称える文言が刻まれている。翁は幼くして右足の自由を失い、農家を継ぐことが出来なかったのでレンズ作りを志したこと、凄まじい努力で眼鏡製作の技術を身につけ、この地に広めたこと等が読み取れる。
田島神社から北へ、「舎利尊勝寺」はこの辺りの地名「舎利寺」の元にもなった、由緒正しく起源の古いお寺。今は、禅宗の一派「黄檗宗」に属する寺院だが、実に興味深い縁起譚が残されている。
約1400年前の用明天皇の時代のこと。この地に住む「生野長者」と呼ばれる人に言葉の不自由な子が生まれた。その子が十三歳の時、四天王寺を建てるために来られていた聖徳太子が「わたしが前世に預けた三つの舎利を返しなさい」(註2)と言うと、口から三つの舎利(註3)が出て、その子は話せるようになった。太子は三つの舎利のうち、一つを法隆寺に、一つを四天王寺に、残った一つを長者に渡された。たいへん喜んだ長者が御堂を建てて、舎利をお奉りしたのが「舎利寺」の起源だと言われている。境内には、江戸中期の儒学者・菅甘谷[すがかんこく]の墓、沢山の個性的な仏像や美しい池もあって、しばし佇んでみたくなる。
【註】
(1)1928(昭和3)年11月10日に京都御所に於いて即位式、14、15日に大嘗祭が行われた。その背後には政治的大弾圧があった。田中伸尚『1928年。「御大典」の裏側で』(第三書館、1993年)参照のこと。
(2)門前の由来説明版には「予が前世にて汝に毘婆尸佛[びばしぶつ]の舎利三顆[しゃりさんか]を預けていたが、今それを返しなさい」とある。毘婆尸仏[佛]は、釈迦以前の理想仏とされる「過去七仏」に属する。
(3)「舎利」は遺骨または遺体を意味するサンスクリット語(梵語)シャリーラに由来する。仏舎利は釈迦の遺骨を意味するので、「舎利」と言うことでそれと区別している。なお、寿司飯の「シャリ」は、サンスクリットの「シャーリ(米)」に由来するという説や、「舎利」に似ているからだという説など、定かではない。

つるのはし跡

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JR「桃谷駅」の出口が、即「桃谷商店街」の入り口で、ここから東に疎開道路まで六百メートルほど、曲がりくねった緩やかな坂道に、細いアーケード街が続く。衣・食・住の店舗はもちろん、書店、文化教室、電気屋さん、文房具屋さん、工務店…約百六十の商店がびっしりと軒を連ねて、昭和30年代にタイムスリップしたような雰囲気だ。アーケードの終点で疎開道路を渡ると、小さな『つるのはし跡公園』がひっそりと佇んでいる。
説明板には「つるのはしは、もとの平野川にかけられていたが、この川は昭和十五年に埋められ新平野川に改修されたため廃橋となった。/日本書紀に<仁徳天皇猪甘津(ルビ:いかいつ)に橋をつくる、この処を小橋と名付く>とあって、文献の上では、わが国最古の橋であるということができる。むかし、このあたりに鶴がよく飛んで来たことから、いつのまにか鶴橋と呼ばれるようになった。/昭和49年 生野区役所」とある。
『つるのはし』は、古くは河内・大和への交通の要所で、明治時代には石の橋になった。1997年、廃橋の祭に石碑と当時の親柱四本を記念に保存して『つるのはし跡公園』として再整備、何時訪れても綺麗に清掃がなされていて、心が洗われる思いがする。

しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に
渡り初めにし ゐかい津の橋  (小野小町)

この地は五世紀の百済系渡来人が開いた百済郷のあとでもある。この橋を架けたのも、百済からの渡来人だったか…猪飼野は、千六百年の昔から「コリアタウン」なのだ。

現代の"人生幸朗"を目指すパギやんが、日々の喜怒哀楽を綴ります。嬉しい出会いあり、怒髪天をつく「怒」あり…【詐欺国ニッポン】を旅しながら、今日も今日とて《反・否・非・不~》なのであります。

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