日々の喜怒哀楽を綴ります。

あぁ、情けない…

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予想したとおり、辻元清美は社民党を辞めるそうな。与党職がそれほど魅力的なんかね-。秘書給与問題で辞任したときも、政権離脱で副大臣を辞めたときも、ぶざまに泣きやがった--その程度の「お人柄」やったわけや。【高市早苗未満・末広真樹子以下】が露呈したね。清美ちゃん、アンタのために必死で闘い、志半ばで死んだ藤田さんに合わせる顔あるか?あんたは、誰の支持と応援で議員になれたん?本来、何の繋がりもない高槻・島本に落下傘でやって来て、誰のおかげで勝てたん?灰谷健次郎さん、筑紫哲也さん…今、あんたの脳裏に浮かんでるか?「義理」という言葉の意味を知ってるなら、「感謝」という日本語を貴いと思うなら、もっぺん反芻しぃ。もう会うことも、言葉を交わすこともないと思うけど、今後「震災、ボランティア云々」と一言でも言うてみぃ、ワレ、ただおかんど。
出て行け!社民党からも、大阪からも!!

『独立』10周年、万歳

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東大阪市立大平寺夜間中学開校10周年記念で歌いました。楽しかった・嬉しかった・切なかった…それれぞれの「在日」が<集い・学び・喜び>あう、その場にいたことに感謝!
人を管理し、人を貶め、人を蔑み、人と人を乖離せしめる「教育」という名の地獄は「夜中」の名の下に消滅すべし。ちんけな韓流ブームや「異文化交流」などは「夜中」の門前で揮発する--わかるかな?わかんねぇだろうなぁ。
終演後、「さぁ帰ろうか…おっと、ここは布施やんけ」で、みやもとにて密会。鯨のすじ肉、さえずり、尾の身etc.etc.--最高ですわ(笑)。

「さてぃ」の佳き日

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2年ぶりの「さてぃ」はフルハウス…嬉しい悲鳴と美味しい料理、佳き人々の集い。こんな日が毎日続けば幸せすぎて堕落するだろうけど(笑)、毎月一回あればどれほど有り難いか!皆さん、有難うございました。
【演目:尚州田植え歌、珍島アリラン、旌善アリラン、悔心曲、落語『代書』、橋、一本の鉛筆、イムジン河、グーチョキパーの歌、百年節、ヨイトマケの唄】

「ルカーチ」再読

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哲学の歴史は芸術や文学の歴史と同じくけっして--ブルジョア史家の考えるように--たんに哲学的理念の歴史、いわんや哲学的人物の歴史といったものではない。哲学にとってもろもろの問題およびその解決方向は生席力の発展によって、社会的発展、階級闘争の展開によってたてられる。そのときどきの哲学を決定する基本線は、この原初的動力の認識に基づかないでは見出されえない。哲学の問題連関を哲学のいわゆる内在的な発展からして設定し解決しようという試みがなされる場合には、必ずやもっともたいせつな連関の観念論的歪曲ということがおこる。歴史家のもとに必要な知識が、客観性をめざそうとする主観的な善き意志が存在するような場合ですらそうである。いわゆる精神科学的なみかたがこのような見地に比べてなんら進歩でなくて、逆行の一歩であることは白明である。すなわちそこでは歪曲的なイデオロギー的出発点にはかわりがなくて、ただそれがいっそう朦朧としており、観念諭的歪曲がいっそうはなはだしいだけのことである。ディルタイとかれの学派を、ヘーゲル派の歴史記述たとえばエルトマンと比べてみよ。(ルカーチ『理性の破壊』より)
そう、そのとおり!<脳科学>が真理の体現者であるかのようなデマを流布するデマゴーグ、茂木や養老を笑え--。

大江神社と「長町」

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愛染さんの西側に「大江神社」がある。神社の西側(愛染坂の下方)は、崖のように落ち込んでいて通天閣が見える。「大江」とは古代・難波津の入江が港の名残で、境内には「夕日丘」の歌碑がある。

「契りあれば なにわのさとに やどりきて
波の入り日を 拝みつるかな」藤原家隆

この歌からこの辺りの地名「夕陽丘」がついたとか。本殿の右側には、狛犬ならぬ「狛虎」がユーモラスな姿で鎮座していて、何時の頃からか「阪神タイガース」の優勝を祈願する人々が、球団旗やメガホン、絵馬などを奉納するようになった。
神社西側の石段の上に「日本橋五丁目・寛政五年六月」と刻まれた石灯籠があり、下の鳥居には「長町六丁目・寛政五年五月」とある。江戸時代初期に「長町」は一丁目から九丁目まであったが、しだいに「無宿者」や袖乞・貧民がその南部に集中し、後に「搗米、酒造、油絞、馬方、駕籠かき、仲仕」など労働者の街になる。北部は商売地域として発展したので、1792(寛政4)年に、元の「長町一~五丁目」を「日本橋通り一~五丁目」、南部は「長町六~九丁目」と分離し、「木賃宿は六~九丁目に限る」という措置がとられた。この政策が、明治に入って「釜ヶ崎」の形成に繋がっていく。町名変更になった翌年に建てられた灯籠と鳥居を見ると、何とも意味ありげで興味が尽きない。

源ヶ橋温泉

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「寺田町駅」の北口と南口は、全く異なる顔を持っている。南口は天王寺区で、大阪教育大学(元・天王寺分校、現・第二部)や古い町並みやが残っている閑静な住宅地。南口にある「寺田町駅前南商店街」は、元々「黄金地商店街」という戦前からの古い商店街で、『黄金湯』という銭湯がその名を今に留めている。一方、北口は西側が天王寺区、東側が生野区の南端。猫間川【註1】に架けられていた「源ヶ橋【註2】」の名を残す交差点から東に『生野本通り商店街』が延びていて、途中で名称を変えながら、約一六〇〇メートルの長いアーケードが続く活気溢れる街。『源ヶ橋温泉』は、商店街に入って一五〇メートルほどの処、疎開道路の手前を右(南)に折れた所にある。この銭湯は1935(昭和10)年に建てられた「文化庁認定有形文化財」で、「この建造物は貴重な国民的財産です」と刻まれたプレートが掲げられている。おそらく日本で唯一の「文化財銭湯」ではないか。そればかりではなく、全国各地から取り寄せた「漢方・ハーブの湯」、また石川県小松市のオパール原石を用いた「オパール湯」もあって、実にありがたい気分に浸れるのだ。

【註】
(1)阿倍野区高松に端を発し、源ヶ橋を通って生野区から東成区・城東区と環状線に沿って流れ、森之宮の砲兵工廠の西北端で平野川に合流していた長さ4.5キロメートル、川幅約10メートルの自然河川。戦前から暗渠化の工事が続けられて1957(昭和32)年に完全に消失したが、川の痕跡や関連する石碑が各地に残っている。百済川(平野川の古名)に対して高麗川[こまがわ]と呼ばれていたのが、訛って猫間川になったといわれている。
(2)文化8(1811)年3月に出来た橋で、次のような逸話が残されている。猫間川の渡し守で源兵衛という悪党がいて、通行人を殺めては金品を強奪していた。ある日、いつものように一人の旅人の身ぐるみを剥いで殺してしまうのだが、それは長年行方を捜していた我が子だった。さすがの源兵衛も自分の罪の深さを悔やみ、出家して有源という僧侶なり、罪滅ぼしのために、それまでに掠めて貯めた銭で川に橋を架けた。

ひたすら

原稿書き…ぜいぜい。

暑…

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暑気払いに「寺田町駅」近くの大和温泉へ入る。水がいい!なるほど「西峯式水風呂健康法本部」とある…どんな健康法だろう、肖りたい(笑)。風呂上がり、久々に宇治金時を食す。六八〇円也。涼!

現代の"人生幸朗"を目指すパギやんが、日々の喜怒哀楽を綴ります。嬉しい出会いあり、怒髪天をつく「怒」あり…【詐欺国ニッポン】を旅しながら、今日も今日とて《反・否・非・不~》なのであります。

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